実在を巡る議論
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/26 22:40 UTC 版)
美しさと武芸の才能を兼ねそろえた人物とされ、忍城の戦いにおいて継母らと共に籠城軍を指揮した説話は、後世に編纂された『成田記』や『真書太閤記』などを通じて伝えられている。ただし、2013年時点において確認ができる事柄は、彼女が豊臣秀吉の側室の一人となり、死の間際まで務めていた点のみだという。甲斐姫に関しては、その当時の多くの歴史的な女性と同様に、実在したことを確認できる詳細な記録は残されておらず、後世に編纂された書物のみであることから、実在性を疑問視する指摘もある。 甲斐姫に関する説話は安永年間に執筆された『真書太閤記』に詳細に記述されており、文化から文政年間に執筆された『成田記』も参考書の一つとしている。成田氏の推移を記述した『成田記』は、作者の小沼十五郎保道が著した以前に、その基となる『旧成田記』が存在したものと考えられるが、『回国雑記』などの一級資料のほかに『関八州古戦録』『甲陽軍鑑』などの軍記物を参考とした内容となっている。歴史学者の黒田基樹は「良質資料には見えないが、『三姉妹の長女』『氏長留守中の居城防衛に奮戦』『武勇と美貌が秀吉の目に留まり側室となった』『秀吉の取り成しにより成田氏の存続が果たされた』といったことが場面を変えつつ複数の所伝がある。合戦後、下野烏山3万石の大名として存続する過程で大きな役割を果たしたのだろう」としている。 前述のように甲斐姫の消息は秀吉の没後に途絶え、領地の烏山に移り住んだ記録はなく、成田氏の菩提寺である熊谷市にある龍淵寺には彼女の墓は存在しない。一方で、埼玉県幸手市に土着した吉羽氏には、甲斐姫から贈られたと伝えられる秀吉の使用した弁当箱が残されている。吉羽氏は元々は成田氏の家臣で、後に甲斐姫の父である氏長の子を奉じて幸手に移り住んだという。これらのことから甲斐姫と吉羽氏は、忍城の戦いの後も交流を続けていたものと推測されている。 平成24年(2012年)8月、甲斐姫が秀吉の主催した醍醐の花見に列席した際に詠んだと考えられる和歌の短冊が発見された。この短冊は京都にある醍醐寺に保管されていたもので、花見で詠まれた和歌の120番目に甲斐姫のものと考えられる歌が記録されている。署名は「甲斐」ではなく「可い」となっているが、作家の山名美和子は「甲斐姫の短冊にほぼ間違いない」としている。また、119番目には「い王(わ)」と署名された短冊が残されており、山名は「い王」が秀頼の娘の母の小石の方ではないかと指摘しているが、同寺の学芸員は「当時の女性は文字を書く際に変体仮名を使っていたので、署名が仮名でも不思議はない。しかし、『可い』が甲斐姫であるかは史料がないため、同一人物であるかは分からない」としている。
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