求厭
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/04/05 04:06 UTC 版)
ナビゲーションに移動 検索に移動求厭(ぐえん、生年不詳[1] - 元禄元年(1688年))は、江戸初期の浄土宗の僧。生母などは不明。
臨終の際の告白から出自は、豊臣秀頼の第二子であると云う。『続日本高僧伝』によると、求厭の姓は豊臣氏で、大阪摂津の出身であるとし、国松は兄であると言ったと云う。慶長20年(1615年)5月の大坂夏の陣の際は、衛士が江戸に隠したために難を逃れたとする。初め三縁山増上寺に登り、業を受けた。秀才で善く法門に弘通して、周りの人々を徳で感化させた。後に各地を周遊し、山城国伏見に至り、同地で没した。享年80と伝わる[2]。
脚注
参考文献
- 鷲尾順敬編 国立国会図書館デジタルコレクション 『日本仏家人名辞書』 光融館、1911年、223頁 。
- 鰲巓道契編 (漢文) 国立国会図書館デジタルコレクション 『続日本高僧伝 巻3』 鴻盟社、1884年 。
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