歴史上に登場した落胤といわれている人物
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/31 03:28 UTC 版)
「落胤」の記事における「歴史上に登場した落胤といわれている人物」の解説
落胤説のある人物人物概要一般的に父親とされている人物 一説に父親とされる人物備考秦河勝 古墳時代・飛鳥時代の官人 秦丹照または秦国勝 安閑天皇 藤原不比等 飛鳥時代・奈良時代の公卿 藤原鎌足 天智天皇 道鏡 奈良時代の僧 物部櫛麻呂 志貴皇子 大江音人 平安時代初期の貴族・学者 大枝本主 阿保親王 高階師尚 平安時代前期の貴族 高階茂範 在原業平 空也 平安時代中期の僧 醍醐天皇 藤原頼成 平安時代の貴族 具平親王 具平親王と雑仕女の大顔との間の子で、大顔の死後に親王家の家司の藤原為頼の息子の伊祐(紫式部の従兄弟)の養子として育てられた。遍照寺に月見に出かけた際に大顔が頓死した出来事は『源氏物語』の光源氏と夕顔のエピソードのモデルと言われている。 高階為行 平安時代の貴族 後冷泉天皇 後冷泉天皇と菅原増守女の子であり、天皇の乳母子の高階為家の養子として育つ。 藤原有佐 平安時代の貴族 後三条天皇 後三条天皇と掌侍の平親子との間の子であり、禎子内親王の乳母子の藤原顕綱の養子として育つ。『今鏡』によると後三条天皇に似ていたという。 平清盛 平安時代末期の武将 平忠盛 白河法皇 『平家物語』では白河法皇と祇園女御の子とされているが、清盛存命時の公卿の日記などにはそのような描写は見られず、信憑性は疑問。 崇徳天皇 第75代天皇 鳥羽天皇 白河法皇 白河法皇と藤原璋子(待賢門院)の子であり、表向きは父親である鳥羽天皇からは「叔父子」と呼ばれていたという説がある。 八田知家 平安時代末期の武将 八田宗綱 源義朝 朝家と名乗った説があるが、真偽のほどは不明である。 島津忠久 島津氏の祖 惟宗忠康 源頼朝 大友能直 大友氏の祖 近藤能成 源頼朝 結城朝光 結城氏の祖 小山政光 源頼朝 足利直冬 南北朝時代の武将 足利尊氏 尊氏に実子と認知されず、足利直義の養子となった。 岩松満純 室町時代中期の武将 新田義宗 足利義尚 室町幕府第9代将軍 足利義政 後土御門天皇 応仁の乱当時、天皇は将軍御所へ避難するために同居しており、足利義政と不仲だった日野富子との関係が噂されたことによる。 一休宗純 室町時代後期の僧 後小松天皇 小田政治 室町時代後期の武将 足利政知 別名政氏と伝わる。 浅井重政 浅井氏の祖 正親町三条公綱 細川藤孝 戦国時代の武将 三淵晴員 足利義晴 二宮就辰 戦国時代の武将 二宮春久 毛利元就 井上元勝 戦国時代の武将 井上就勝 毛利元就 元就の妾が井上就勝に嫁ぎ、程無く生まれたのが元勝であったとしている。 斎藤義龍 戦国時代の武将 斎藤道三 土岐頼芸 信憑性は乏しく、江戸時代以降の創作ともされる。当時においても義龍の父親は道三だと認めている書状(六角義賢が永禄3年(1560年)、家臣に宛てた書状『六角承禎条書』)が存在する。 大谷吉継 戦国時代の武将 大谷吉房 豊臣秀吉 秀吉と側室東殿との子とされる。 東嶽 江戸時代前期の僧 北畠具教 淀殿 戦国時代の女性 浅井長政 織田信長 豊臣秀頼 江戸時代前期の大名 豊臣秀吉 大野治長 松花堂昭乗 江戸時代前期の僧 豊臣秀次 求厭 江戸時代前期の僧 豊臣秀頼 秀頼の第二子であると、本人が臨終の際に告白したとされる。 天草四郎 江戸時代のキリシタン 益田好次 豊臣秀頼 鈴木一蔵 戦国時代の人物 徳川家康 永見貞愛 安土桃山時代から江戸時代の人物 徳川家康 結城秀康の双子の兄弟との説がある。 土井利勝 江戸時代の大名、老中・大老 水野信元 徳川家康 松平康重 江戸時代の大名 松平康親 徳川家康 井伊直孝 江戸時代の大名 井伊直政 徳川家康 松平民部 江戸時代の武将 徳川家康 小笠原権之丞 江戸時代の武将 徳川家康 2代目後藤庄三郎(広世) 江戸時代の御金改役 初代後藤庄三郎 徳川家康 保科正之 江戸時代の大名、会津藩初代藩主 徳川秀忠 後に認知され松平姓を名乗ることを許された(実際に改めたのは3代目正容から)。 柳沢吉里 江戸時代の大名 柳沢吉保 徳川綱吉 天一坊改行 江戸時代の人物 徳川吉宗 吉宗の落胤であると称したが、吉宗の命によって獄門にされた。 藤堂平助 幕末の新選組隊士 藤堂秉之丞 藤堂高猷 松崎万長 明治の建築家 堤哲長 孝明天皇 遺詔により特に一家を立てて堂上に列した。
※この「歴史上に登場した落胤といわれている人物」の解説は、「落胤」の解説の一部です。
「歴史上に登場した落胤といわれている人物」を含む「落胤」の記事については、「落胤」の概要を参照ください。
- 歴史上に登場した落胤といわれている人物のページへのリンク