飛鳥時代・奈良時代
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701年(大宝1年)に律令制が始まると、道国郡制が整備され、陸奥国信夫評は、東山道陸奥国信夫郡となって、評司は郡司(ぐんじ)に置き換わった。大和朝廷の勢力圏が北進したために、陸奥国は一時的に石城国(いわきのくに)(現在の福島県浜通りと宮城県亘理郡)、石背国(いわせのくに)(現在の福島県中通りと会津)、陸奥国(ほぼ現在の宮城県)の3国に分国されたが、新しい陸奥国の経済力では北方防備に不十分だったため、すぐに3国はもとの陸奥国に戻された。この分国時、信夫郡は石背国の北東端となった。以後、明治維新後の分国まで一貫して陸奥国だった。 なお、当時の福島盆地中心部は岑越であり、現在の福島市北五老内あたりであったと思われる。当時松川は信夫山の南側を流れていて、松川以北摺上川以南の地名は岑越(みねこし)であり、信夫山は岑越山(みねこしやま)と呼ばれた。一方、松川の南、杉妻(すぎのめ)には杉妻大仏が建立された。
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飛鳥時代・奈良時代
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7世紀前半に浄土教(浄土思想)が伝えられ、阿弥陀仏の造像が盛んになる[要出典]。奈良時代には智光や礼光が浄土教を信奉し、南都系の浄土教の素地が作られた。
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飛鳥時代・奈良時代
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飛鳥時代から奈良時代にかけて唐の影響を受けながら国家としての体裁を整えていく。大陸から取り入れた律令や儒教、仏教などは家父長制などの男尊女卑を内包していた。それらの受容については大陸に比べ緩やかであったものの、社会的な男女差が広がっていった。そうした中で男性「官人」と女性「宮人」の区別が生まれ、天皇位の継承も父系が強調されるようになる。また、戸籍制度が始まり、男性が戸主となったことから女性の働きが見えづらくなってくる。
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飛鳥時代~奈良時代
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飛鳥時代については、仏教絵画に限らず、絵画の遺品そのものが僅少であり、法隆寺の玉虫厨子の壁面に表された絵画や、中宮寺の天寿国繡帳のような工芸遺品の意匠から当時の絵画を偲ぶほかない。これらの遺品を見ると、当時の絵画は中国六朝様式の影響が濃い、簡明な様式のものであったと推定される。 奈良時代に入っても現存する絵画遺品はあまり多くない。薬師寺吉祥天像などのわずかに残る遺品を見ると、この時代の仏教絵画は、同時代の他の造形作品と同様、中国・唐の影響が強い。法隆寺金堂壁画は鉄線描と呼ばれる強い線描と濃い陰影表現が特色で、その様式の源流はインドや西域(中央アジア)の絵画にあると見なされている。法隆寺金堂壁画のうち大壁の壁画12面は1949年の火災で焼損し、小壁の飛天の壁画20面のみが焼損を免れている。 この時期の代表的作品として以下のものがある。 玉虫厨子(法隆寺)、飛鳥時代 法隆寺金堂壁画:1949年(昭和24年)焼損(小壁の飛天の壁画20面のみ焼損を免れる。)、奈良時代初期 麻布菩薩(正倉院)、奈良時代1981年(昭和56年)1月20日発売の30円はがきの料額印面の意匠になった。 吉祥天像(薬師寺)、奈良時代 法華堂根本曼荼羅(ボストン美術館)、奈良時代 法隆寺金堂壁画のうち小壁飛天図
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