飛鳥時代 - 室町時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/02 22:52 UTC 版)
「はさみ山遺跡」の記事における「飛鳥時代 - 室町時代」の解説
飛鳥時代中期の遺跡としてはさみ山遺跡で話題となったのは、2003年(平成15年)の藤井寺市さくら町の公団住宅(現・サンヴァリエ藤井寺)建て替えに伴う発掘調査で、46棟(調査段階)を超す掘立柱建物跡がまとまって検出されたことである。なかでも調査区南部でみつかった四面庇を持つ大型建物は注目に値する。 この大型建物は、床面積の広さばかりでなく、周辺にやや小規模な付属屋的建物や、倉庫と推定される総柱式の建物が配置されていたこと、さらに、その周りに塀とみられる柱列や小規模な濠と考えられる溝をめぐらせていることから、官衙関連施設か、あるいは豪族居館であった可能性が指摘されている。 奈良時代・平安時代にもはさみ山遺跡の地区では大規模集落が営まれ、当該期の遺構・遺物も多い。藤井寺の地名の由来となった遺跡北西の葛井寺は、その名の通り、この地を本拠とした葛井氏(白猪氏)の氏寺と考えられる。はさみ山遺跡からは多量の土師器・須恵器が出土しており、墨書されたものも多く、漆を容れた壺や坏も出土している。8世紀代の役人が着用した帯の金具も出土しており、官位を有する有力者もしくは役人の存在が想定される。はさみ山遺跡の地区から見つかる集落跡は鎌倉時代・室町時代のものまで続き、発掘調査では、掘立柱建物や倉庫、井戸、土地の区画や排水のための溝、水を溜めたりゴミを捨てるための穴などが見つかっている。 これらのことから、はざみ山古墳と野中宮山古墳は、古墳時代が終わると、周囲を集落に取り囲まれるような状況になっていたことがわかる。特に、掘立柱建物が古墳のすぐそばまで建てられるようにもなった。これは、古墳時代とそれ以降の時代の人々の、古墳に対する考え方の変化を反映していると指摘される。この考え方の変化は、新たな社会秩序の形成に由来するものと考えられている。
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