飛鳥時代 - 平安時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/22 00:46 UTC 版)
「日本の儒教」の記事における「飛鳥時代 - 平安時代」の解説
飛鳥時代では仏教の普及に熱心であった蘇我氏の台頭もあり、飛鳥京を中心に仏教遺構が数多く建造された。だが、乙巳の変以降の皇室、特に斉明天皇は儒教に深く帰依したと考えられ、亡夫である舒明天皇の御陵を八角墳としたり、多武峰に置いた両槻宮とその関連遺構(酒船石遺跡、飛鳥水落遺跡、狂心の渠など)には儒教と陰陽道の影響が強く顕れている。 その後の平安時代初期においては天武天皇が発布した律令制にも儒教の影響が見られ、儒教の思想は官吏養成に応用され、また国家で研究を行う学問として式部省の被官の大学寮において明経道として教授された。しかしながら、日本では科挙制度が取り入れられなかったためか儒教本来の価値が定着せず、学問の主体は、実学的な文章道と、道経色が強い陰陽道に移った。やがて神仏習合が進んで救済に加えて鎮守の意味も獲得した仏教が隆盛となり、空海の『三教指帰』による道教批判などもあって、衰退していった。
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