飛鳥時代・奈良時代の労働
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/26 07:46 UTC 版)
「日本の女性史」の記事における「飛鳥時代・奈良時代の労働」の解説
官僚制においても唐と異なる点が見られる。唐に倣い、女性は表向き公的な役職(二官八省)からは排除され、後宮十二司に属する宮人(くにん)となったが、天武天皇「男女が並び仕えるのが道理」(『続日本紀』)としたように男女が同じ職務を行うこともあった。宮人は天皇の家政機関の意味合いが強いが、上級宮人は天皇の命令取次を担うなど実務を行う性格も持ち合わせている。また下級宮人は采女など地方豪族が貢上した子女であったが、彼女らの中には飯高宿禰諸高や伊福吉部徳足比売の様に特に出世をする人もいた。宮人になるためには読み書きは必須の能力であった。男性は大学・国学といった公的教育機関で学ぶのに比べ、女性は家庭教育によってしか学ぶ機会を得られなかった。また、国衙・郡衙など地方行政の女性参加について明確な史料は残されていないが、青谷横木遺跡からは女性官人の人形(ひとがた)も出土しており、女性も参加していた可能性が指摘されている。 養老令(757年)の医疾令により、医療制度が初めて整備された。官戸の若い女性から頭脳明晰な30名を採用し、後宮女性に対して医療業務を行う女医 (律令制)を育成する制度が始まった。彼女らは医博士により産科、外科、鍼灸の技術を口頭で教わっていた。ただし女医が具体的にどのような業務を行ったのか記録に残っていない。男性が医書を学んで育成されたのに比べて、口頭教育に甘んぜざるを得なかった女性は技量が低く、女医の実務は白粉製作や医療補助、もしくは身分の低い女性への医療行為にとどまったと考えられている。 7世紀以降になると祭祀と離れた娯楽としての宴が行われるようになる。こうした宴では歌舞がつきものであったが、場を盛り上げる遊行女婦(ゆぎょうじょふ、うかれめ)と呼ばれる専門女流歌人が現れる。従来は遊行女婦は売春を行っていたと考えられていた。しかし、後に官人の妻になる者がいることや宮人と同様に娘子(おとめ)と記されていることなどから、職種は芸能人に類するものと考えられ、宴の後での性行為は当時の開放的な男女関係によるもので売春ではなかったと考えられている。 律令制下において調や庸は男性に課されていたが、納める布の生産は女性の手によっていた。京では一部の高級絹織物や金属加工などは唐からの技術を学んだ男性が製作したが、日常の布や土師器の作成は女性職人の仕事であった。貴族や寺院は染女(そめめ)や縫女(ぬいめ)などの女性職人を雇うが、それらは雇い主の為の生産に留まっていた。こうした専業職人がいたのは、京では市場で必要なものが手に入るからであったが、やがて自ら市場で商売を行い収入を得るものが出てくる。『日本霊異記』では酒の販売で不正を行う女性が描かれるが、そこから女性が家畜、奴隷、田畑を所有するだけでなく、管理運営し富豪となる女性もいたことが分かる。
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