飛鳥時代・奈良時代・平安時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/14 05:56 UTC 版)
「日本料理」の記事における「飛鳥時代・奈良時代・平安時代」の解説
『古事記』には豊葦原千五百秋瑞穂国(とよあしはらのちあきながいおあきのみずほのくに)、稲穂が実る国と記され、720年の『日本書紀』ではウケモチのお腹から稲が生まれたという神話が書かれている。平安時代末期には強飯に代わり、現代の炊飯されたご飯と同じような姫飯(ひめいい)も食されるが普及はもっと後である。 『日本書紀』に料理の記述がある。主食と副食による食事構成が定着し、米や麦・アワなどをおこわや飯、粥にして食べていた。副食に用いる食品は、野菜・海藻・魚介類が用いられた。獣肉等は天武天皇の675年に、牛・馬・犬・猿・鶏の殺生禁止令が出され、表向きは食用とされなくなった。また猪と鹿は殺生禁止の対象とはならなかった。料理法としては、生物・焼物・煮物に加えて、茹物・羹・和え物・炒り物などがある。加工法としては干物・塩辛・漬物・寿司などがあった。遣唐使による唐の影響から、料理も影響を受ける。大饗(だいきょう/おおあえ)では、飯に膾や干物に加えて、干物や揚げ物を含む唐菓子、木菓子と呼ばれる果物などが台盤に並べられた。箸とともに匙も使われた。調味は食べる際に塩や酢・醤(ひしお)・酒で味をつけた。
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