飛鳥時代末から奈良時代とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > 飛鳥時代末から奈良時代の意味・解説 

飛鳥時代末から奈良時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/03/23 10:20 UTC 版)

出羽柵」の記事における「飛鳥時代末から奈良時代」の解説

文献上の初見続日本紀709年和銅2)7月1日蝦夷征討のため、諸国命じ兵器出羽柵運搬した」という内容記事である。これにより、709年以前から出羽柵存在したことが判る当時中央政府は、東北地方蝦夷征服活動進めており、日本海沿岸方面では、708年和銅1)越後国出羽郡たてられた後、712年和銅5)出羽国置かれた。出羽郡設置前後出羽柵設けられ、これにより蝦夷征服拠点確保され出羽国昇格する契機となったものと考えられている。設置当初出羽国国府機能は、出羽柵果たしていたようである。当時陸奥出羽置かれた「柵」は、城柵であると同時にその周辺地域統治する行政機関として機能していた。 続日本紀には、714年和銅7)に尾張上野信濃越後等から200戸を出羽柵移住させたこと、その後716年信濃上野越前越後から各100戸、717年にも信濃上野越前越後から各100戸、719年には東海道東山道北陸道から200戸を出羽柵入植させたことが見える。柵戸出羽国への移住総計1300戸におよんだ柵戸公民身分である。 これらは、蝦夷教化し出羽国開発開拓促進するために行われたものであり、また、律令制支配辺境部にまで徹底し城柵への兵士供給源とした。 秋田県移設される前の出羽柵庄内地方山形県沿海部)、赤川河口羽黒山中間地域設置されたとも見られるが、詳しい所在地不明である。 733年天平5)12月26日出羽柵秋田村高清水岡(秋田県秋田市)へ移設された(続日本紀)。これに伴って出羽国府も秋田移されたのかについては諸説あるが、考古発掘によれば8世紀後半秋田国府移されていたと推測される760年頃、出羽柵秋田城へと改変され大日本古文書『丸部足人解』)、この後出羽柵の名は史上現れなくなったその後蝦夷反乱が相次ぎ秋田城から出羽国府が移設されたが、その有力な候補として現在考えられているのが、昭和6年現在の酒田市城輪発見され城輪柵(きのわのき)である。

※この「飛鳥時代末から奈良時代」の解説は、「出羽柵」の解説の一部です。
「飛鳥時代末から奈良時代」を含む「出羽柵」の記事については、「出羽柵」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「飛鳥時代末から奈良時代」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「飛鳥時代末から奈良時代」の関連用語

1
14% |||||

飛鳥時代末から奈良時代のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



飛鳥時代末から奈良時代のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの出羽柵 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS