飛鳥時代以前
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飛鳥時代以前(陰陽家)
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「陰陽師の一覧」の記事における「飛鳥時代以前(陰陽家)」の解説
恵慈 えじ ? - 623年(推古天皇31年) 飛鳥時代、595年(推古天皇3年)に高句麗から来朝し、聖徳太子の仏法の師となる。仏法を広め、翌596年(推古天皇4年)に法興寺(現在の飛鳥寺安居院)が建立されると百済から帰来した僧・慧聡とともに「三宝の棟梁」としてこれを守った。仏法にあわせて陰陽五行思想をもたらしている。615年、聖徳太子が著した仏教経典『三経義疏』(『法華経』・『勝鬘経』・『維摩経』3経の注釈書)を携えて高句麗へ帰国。 觀勒(観勒) かんろく ? - ? 602年(推古天皇10年)10月に百済から帰来した学僧。日本における初代僧正。天文地理書・元嘉暦の暦本・陰陽五行思想にもとづく遁甲方術・『摩登伽経』を伝え、聖徳太子をはじめ、選ばれた34名の弟子たちに講じた。 陽胡玉陳(やこのたまふる)に暦法を、大友(大伴)村主高聡(おおとものすぐりたかさと)には天文を、山背日立(やましろのひたて)には遁甲方術を授けたとされている(『日本書紀』巻第二十二)。 その元嘉暦の暦本は聖徳太子により604年に官暦として正式に採用された(『政事要略』)。 日本の陰陽道のルーツとなるパイオニア的存在で、後に「先在した五芒星文化勢力を陰陽道で封じるために観勒像を鎮座させ」られるほど、初代僧正としての貫禄を見せている。当初は飛鳥寺、親百済派であった蘇我氏由来の法興寺、元興寺に居を構え、639年(舒明天皇11年)に大和国百済川のほとりに百済大寺を開創した。 後に建立された陰陽寮や占星台の址である天武天皇時代の飛鳥池遺跡からは1998年に「天皇…丁丑年(677年)…観勒…」と、その名を記した木簡が出土している。 陽胡玉陳(陽胡史祖玉陳) やこのたまふる (やこのふみびとのおやたまふる) ? - ? 後漢(東漢)出身で推古朝に隋から帰来の帰来人とも、大隅国の豪族出身者とも言われている。後の陽胡史(「やごのふみびと」、「やこのふひと」とも)の祖。602年(推古天皇10年)、観勒に師事して暦法を修め、日本における暦道の祖となった(『日本書紀』巻第二十二)。 大友高聡(大友村主高聡) おおとものたかさと (おおとものすぐりたかさと) ? - ? 後漢(東漢)出身、推古朝に帰来。大伴村主高聡とも。602年(推古天皇10年)、観勒に師事して天文を修め、日本における天文道の祖となった(『日本書紀』巻第二十二)。 山背日立(山背臣日立) やましろのひたて (やましろのおみひたて) ? - ? 山背日並(山背臣日並)とも。皇族出身者とする説が有力。602年(推古天皇10年)、観勒に師事して「吉を取り凶を避ける術」とされた兵書の忍術である遁甲を修め、日本における遁甲方術の祖となった(『日本書紀』巻第二十二)。 僧旻 そうみん (そうにちぶん) ? - 653年(白雉4年) 百済からの帰来人で、百済系保守派を代表する人物。観勒から引継いでの百済大寺寺司。正式な法名は「僧日文(そうにちぶん)」だが、その縦書きが「僧旻」と誤読されたものが定着した 608年(推古天皇16年)の小野妹子の第1回遣隋使に随行、その後24年間にわたって隋に留学して仏教・儒学・陰陽五行思想・天文・易学など広く諸学を修めた。632年(舒明天皇4年)8月に犬上御田鍬の第1回遣唐使に随行して帰国した。その後は重用され、親百済派である蘇我入鹿や祭官家の中臣(藤原)鎌足らに易学(周易)を講じた(『大織冠伝』)。 天文に精通しており、637年(舒明天皇9年)の流星を天狗の吠声と説き、639年(舒明天皇11年)の彗星出現に際しては飢饉の前触れであると説いた。 乙巳の変の後、645年(皇極天皇4年・大化元年)から翌年にかけての大化の改新の際には、仏教擁護の国策により「十師」のひとりとして高僧の認定を受け、さらに高向玄理(高向黒麻呂)とともに国博士(正式官制ではない諮問機関で天皇側近の政策ブレーン)に任じられ、「大化の改新の詔」をはじめとする諸詔勅・法令・制度等に大きくかかわり、649年(大化5年)には八省百官の制を創案をするなど活躍した。その後も、650年(大化6年)に白戸国司から白い雉が献上された際、珍鳥出現の祥瑞を中国漢代の緯書の語句と中国の史書に見られる先例を根拠に「帝徳が天に感応して現われた祥瑞であるから天下に大赦するべきである」と孝徳天皇に祥瑞改元(吉兆とされる現象をもって新しい年号をたてるべきであるとする陰陽道思想)を上申して取りいれられ、元号が白雉と改められるなど、653年(白雉4年)に病没するまで重用された。 同顕(釈同顕) どうけん (ほうしどうけん) ? - ? 斉明天皇の時代に高句麗から帰来。「沙門道顕」「僧道顕」「道賢」とも。 仏教そのものに関する活動よりも、式占を用い、主に外交を中心とした政策ブレーンとして用いられた。 日本と百済・高句麗との私的外交記録である『日本世記』を著した。現存する書物の中では、初めて「日本」という国号を使用している。 角福牟 ろくふくむ ? - ? 百済の貴族階級の陰陽家。本国読み「カク・ポンモ(각복모)」。 百済の滅亡・白村江の戦いの敗戦により、663年(天智2年)に日本の引揚船に乗って亡命帰来(『日本書紀』)。冠位二十六階のうち第18階位にあたる「小山上」を与えられている。 行心(幸甚) ぎょうじん ? - ? 天智天皇の時代に統一新羅の旧百済地域から帰来。大津皇子謀反を唆したとして連座被疑者となり、伊豆国に流され更に飛騨国に移された。 法蔵(僧法蔵) ほうぞう (そうほうぞう) ? - ? 天武天皇の時代に百済滅亡による戦乱を避けて亡命帰来。 隆観(金財) りゅうかん (たから) ? - ? 統一新羅からの渡来僧行心(幸甚)の子。伊豆国へ流罪となり飛騨国の寺に移された父から引継ぎ陰陽諸道に通じた学僧となり法名「隆観」を名乗っていたが、大宝2年の飛騨国司の神馬献上にあたり、その祥瑞を得たとの理由で罪を減免され入京を許された(『続日本紀』)。その後の朝廷への出仕にあたりっては、還俗して名を「金財(たから)」と改めた。 吉備真備 きびのまきび 695年(持統天皇9年) - 775年(宝亀6年) 奈良時代の公卿・学者で、遣唐使として派遣された際に唐から陰陽五行思想を学び、これにかかわる文献を多数持ち帰って、陰陽家としての才能を発揮した。聖武天皇のもとでそれまでの呪禁師を廃止して陰陽道を採用したり、陰陽道に基づいた大衍暦を採用するなどした。藤原仲麻呂により左遷されたが、後に仲麻呂の乱を鎮圧した功により 右大臣まで出世している。藤原広嗣の怨霊を鎮めた話(『今昔物語集』)が知られている。 阿倍仲麻呂 あべのなかまろ 698年(文武天皇2年) - 770年(宝亀元年) 奈良時代の遣唐使に留学生として随行し、猛勉強して唐の科挙に合格し、唐の高官にまで登ったが、日本への帰国を果たすことはなかった。中国名「朝衡」。後に安倍晴明が自らの祖であると自称しているが、史実は異なる。 大津首(大津連首) おおつのおびと(おおつのむらじおびと) ? - ? 統一新羅系の渡来人の家系。「大津連意毘登」とも。 出家して僧「義法」として活動していたが、統一新羅へ大使として派遣され、帰国後は朝廷に出仕するため勅命により還俗して大津連首の名を賜わった。後の大津宿禰大浦(おおつのすくねおおうら)に至るまで、代々陰陽師として重用されることとなった大津氏の祖。 従五位上 721年(養老5年)。陰陽頭 兼 皇后宮亮(730年頃)。
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