百済大寺とは? わかりやすく解説

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くだら‐おおでら〔‐おほでら〕【百済大寺】

読み方:くだらおおでら

大安寺(だいあんじ)


大安寺

(百済大寺 から転送)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/07/28 00:16 UTC 版)

大安寺(だいあんじ)は、奈良県奈良市大安寺二丁目にある高野山真言宗寺院山号はなし。本尊十一面観音開基舒明天皇と伝える。南都七大寺の1つで、奈良時代から平安時代前半までは、東大寺興福寺と並ぶ大寺であった。現在は癌封じの寺として有名である。




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百済大寺

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/14 09:08 UTC 版)

大安寺」の記事における「百済大寺」の解説

田村皇子太子意向承けて、即位後の舒明天皇11年639年)、百済川のほとりに大宮大寺を建て始めた『日本書紀』同年七月条には「今年大宮及び大寺造作(つく)らしむ」「則ち百済川の側(ほとり)を以て宮処とす」とある。これが百済大宮と百済大寺である。百済大寺は日本最初官寺であり、国の大寺として尊崇集めた『日本書紀』によれば大化元年645年8月には孝徳天皇大寺使い派遣して十師定め、このとき恵妙(慧妙とも)が百済大寺の寺主となっている。 百済大寺の位置長年不明であった奈良県北葛城郡広陵町百済寺を百済大寺跡とする説は江戸時代からあったが、飛鳥から遠く離れた同地舒明天皇との関連は明確でなく、付近に天皇建立寺院らしき寺跡発見や古瓦の出土もない。奈良国立文化財研究所(現・奈良文化財研究所)による調査結果1997年平成9年)に奈良県桜井市南西部にある吉備池廃寺跡が百済大寺跡と推定されるとの見解発表した。この寺跡藤原宮跡東方、かつて磐余(いわれ)と呼ばれた地区にある。その後2002年平成14年)まで継続され発掘調査では、吉備廃寺伽藍様子明らかになった。吉備廃寺は東に金堂、西に塔が建つ法隆寺伽藍配置寺院であったことが明らかになり、発掘された古瓦の様式年代からもこの寺院舒明天皇11年639年)に建立された百済大寺に該当する可能性は高いと見られている。

※この「百済大寺」の解説は、「大安寺」の解説の一部です。
「百済大寺」を含む「大安寺」の記事については、「大安寺」の概要を参照ください。

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