古代仏教寺院
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/15 23:36 UTC 版)
釈迦の死後、その遺骨(仏舎利)が信仰の対象となり、それを納めた「八仏塔」が造られた。マウリヤ朝アショーカ王は「八万四千」と表現されるまでに多くの仏塔をインド亜大陸各地に建てた。 中国大陸・漢時代、漢字の「寺」は「役所」の意味であった。西域から多くの僧侶が鴻臚寺などに滞在したことで現在の意味となっていった。西域から来た仏図澄は、893の寺を建てさせた。 北魏・太武帝の仏教弾圧(三武一宗の法難の第一)の後、文成帝 (北魏)は、郡県に官立寺院を造営し、隋を建てた文帝(楊堅)は、新都・大興城内に大興善寺と玄都観(道教)を置き、45州に大興国寺と114カ所に仁寿舎利塔を建てさせた。この仁寿 (隋)年間の頃に最初の遣隋使が送られている。唐を建てた高祖(李淵)は京師に三寺二観、諸州に寺観各一所にまとめようとしたが、玄武門の変により中止、高宗は諸州に寺観各1カ所を置き、武則天による大雲寺、中宗による大唐中興(後に龍興寺)、そして玄宗は各州の寺を開元寺と改名した。 東アジアでは、北魏・永寧寺、百済・弥勒寺、新羅・皇龍寺(慶州歴史地域)、日本・百済大寺と「九重塔」が国力を示す象徴として造られた。郡寺を含めた日本の古代寺院でも塔心礎が見つかっている。 日本・古代仏教は、祖先信仰の氏族仏教、王統護持の宮廷仏教、鎮護国家の国家仏教、現世利益の民衆仏教と多層からなり、それらが併存していたと考えられる。古代寺院の場所は「河合の地」など交通の要衝となる所に造られ、平地にある寺院の相当数が「山」を意識した場所にあるとの指摘がある。また、古代仏教寺院には、軍事的要素があったとの指摘がある。 ジュニア向けの歴史本には「各地で古墳をつくってきた地域の一部の豪族が、評家をもうけ、寺院の建立を行っていくことが、この時代の新しい動きです。」と書かれている。
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