古代人から見たホメーロス
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「ホメーロス」の記事における「古代人から見たホメーロス」の解説
伝承では、ホメーロスは、盲目であったとしている。第一に、『オデュッセイア』でトロイア戦争を歌うために登場するアオイドスのデーモドコスが盲目である――ムーサはデーモドコスから「目を取り去ったが、甘美な歌を与えた」。第二に、『ホメーロス讃歌』のデロス島のアポローン讃歌の作者が自分自身について「石ころだらけのキオスに住む盲人」と語っている。この一節はトゥキディデスが、ホメーロスが自分自身について語った部分として引用している。 「盲目の吟遊詩人」というイメージは、ギリシア文学の紋切り型であった。ディオン・クリュソストモスの弁論の登場人物の一人は、「これらの詩人たちは全て盲目であり、彼らは盲目であることなしに詩人となることは不可能だと信じていた」と指摘した。ディオンは、詩人たちがこの特殊性を一種の眼病のようにして伝えていったと答えている。事実、抒情詩人ロクリスのクセノクリトスは、生まれつき盲目だったとされている。エレトリアのアカイオス(フランス語版)は、ムーサイの象徴である蜜蜂に刺されて盲目となった。ステシコロスは、スパルタのヘレネーを貶したために視力を失った。デモクリトスは、より良く見るために自ら失明した。 全ての詩人が盲目だったわけではないが、盲目は頻繁に詩と結び付けられる。マーチン・P・ニルソンは、スラヴの一部地域では、吟遊詩人は儀礼的に「盲目」として扱われていると指摘している――アリストテレスが既に主張していたように、視力の喪失は記憶力を高めると考えられる。加えて、ギリシアでは非常に頻繁に、盲目と予知能力を結び付けて考えた。テイレシアース、メッセネの@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}オピオネー[訳語疑問点]、アポロニアのエヴェニオス[訳語疑問点]、 ピネハスといった予言者たちは皆盲目であった。より散文的には、アオイドスは古代ギリシアのような社会で盲人が就けた数少ない職業の1つだった。 イオニアの多くの都市(キオス、スミルナ、コロポーンなど)がホメーロスの出身地の座を争っている。『デロス島のアポローン讃歌』ではキオスに言及しており、シモーニデースは『イーリアス』の最も有名な詩行の1つ「人の生まれなどというのは木の葉の生まれと同じようなもの」を「キオスの男」のものであるとしており、この詩行は古典時代の諺ともなった。ルキアノス(120-180頃)は、ホメーロスを人質としてギリシアへ送られたバビロン人だとした(ὅμηροςは「人質」を意味する)。128年に、ハドリアヌス帝にこの件を問われたデルポイの神託は、ホメーロスはイタケーの生まれでテーレマコスとポリュカステーの息子であると答えた。碩学の哲学者プロクロス(412-485)は著書『ホメーロスの生涯』において、ホメーロスはなによりもまず「世界市民」であったと、この論争を結論づけた。 実際のところ、ホメーロスの生涯については分かっていない。8つの古代の伝記が伝わっており、これらは誤ってプルタルコスとヘロドトスの作とされている。これは恐らくギリシアの伝記作者の「空白恐怖」によって説明されうる。これらの伝記のうち最も古いものはヘレニズム時代に遡り、貴重だが信憑性に乏しい詳細に満ちており、そうした詳細のうちには古典時代からのものも含まれている。それらによるとホメーロスはスミルナで生まれ、キオスに暮らし、キクラデス諸島のイオス島で死んだことになる。本名はメレシゲネス――父はメレス川の神、母はニュンペーのクレテイスであった。また同時に、ホメーロスはオルペウスの子孫、従弟、もしくは単なる同時代の音楽家であったという。
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