百済三書との対応
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/05 02:57 UTC 版)
「百済三書」を参照 現代では、継体天皇以前の記述、特に、編年は正確さを保証できないと考えられている。それは、例えば、継体天皇の没年が記紀で三説があげられるなどの記述の複層性、また、『書紀』編者が、『百済本記』(百済三書の一つ)に基づき、531年説を本文に採用したことからも推察できる。 百済三書とは、『百済本記』・『百済記』・『百済新撰』の三書をいい、『日本書紀』に書名が確認されるが、現在には伝わっていない逸書である(『三国史記』の『百済本紀』とは異なる)。百済三書は、6世紀後半の威徳王の時代に、属国としての対倭国政策の必要から倭王に提出するために百済で編纂されたとみられ、日本書紀の編者が参照したとみられてきた。それゆえ、百済三書と日本書紀の記事の対照により、古代日朝関係の実像が客観的に復元できると信じられていた。三書の中で最も記録性に富むのは『百済本記』で、それに基づいた『継体紀』、『欽明紀』の記述には、「日本の天皇が朝鮮半島に広大な領土を有っていた」としなければ意味不通になる文章が非常に多く、また、任那日本府に関する記述(「百済本記に云はく、安羅を以て父とし、日本府を以て本とす」)もその中に表れている。 また、『神功紀』・『応神紀』の注釈に引用された『百済記』には、「新羅、貴国に奉らず。貴国、沙至比跪(さちひこ)を遣して討たしむ」など日本(倭国)を「貴国」と呼称する記述がある。山尾幸久は、これまでの日本史学ではこの「貴国」を二人称的称呼(あなたのおくに)と解釈してきたが、日本書紀本文では第三者相互の会話でも日本のことを「貴国」と呼んでいるため、貴国とは、「可畏(かしこき)天皇」「聖(ひじり)の王」が君臨する「貴(とうとき)国」「神(かみの)国」という意味で、「現神」が統治する「神国」という意識は、百済三書の原文にもある「日本」「天皇」号の出現と同期しており、それは天武の時代で、この神国意識は、6世紀後半はもちろん、「推古朝」にも存在しなかったとしている。 現在では、百済三書の記事の原形は百済王朝の史籍にさかのぼると推定され、7世紀末-8世紀初めに、滅亡後に移住した百済の王族貴族が、持ってきた本国の史書から再編纂して天皇の官府に進めたと考えられている。山尾幸久は、日本書紀の編纂者はこれを大幅に改変したとして、律令国家体制成立過程での編纂という時代の性質、編纂主体が置かれていた天皇の臣下という立場の性質(政治的な地位の保全への期待など)などの文脈を無視して百済三書との対応を考えることはできないとしている。このように日本書紀と百済記との対応については諸説ある。
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