百済の微笑と半跏思惟菩薩像
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/30 12:57 UTC 版)
「仏教美術」の記事における「百済の微笑と半跏思惟菩薩像」の解説
このように、6世紀の朝鮮仏教美術は中国とインドの文化的影響を示したが、それ以降は独特の土着的な特徴を見せるようになった 。 北朝の影響が強い高句麗の仏像に比べ、梁などの南朝とも密接に交流していた百済の仏像は、美術史家には百済の微笑(英語版)と呼ばれている、神秘的で穏やかなアルカイックスマイルを浮かべているものが少なくない。 また、新羅では6世紀後半から7世紀後半にかけて半跏思惟菩薩像が盛んに作られた。これは、中国のものからは独立した形式であった。この様式は、日本の広隆寺伝来の宝冠菩薩にみられるように、奈良時代の日本の仏像様式に大きな影響を与えた。これらの朝鮮の文化に根ざした様式は、日本の初期仏教美術にも見ることができるのは、仏教が伝来して間もない、飛鳥時代の仏像制作に(主に百済出身の)渡来人が携わっていたからであると考えられている。上述の半跏思惟像などは、その典型例であろう。多くの歴史家は朝鮮を仏教の単なる伝達者として描写しているが、これら三国、特に百済は、538年または552年に仏教が日本へと受容されるうえで主体的な役割を果たしたのである。 また、三国時代の朝鮮では寺院の建設も活発に行われた。百済の益山には彌勒寺(英語版)が、新羅の慶州には皇龍寺が建てられた。百済の建築家はその卓越した技術で後世に知られ、上述の皇龍寺の巨大な九重の仏塔や、奈良の法華寺 (飛鳥寺)や法隆寺などの建設を行った 。
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