百済の滅亡後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/03 21:37 UTC 版)
百済滅亡後、子の一人豊璋が倭国の軍事援助を受け、復興戦争を行うが、白村江の戦いで大敗して失敗に終わった。また唐は、百済旧領に熊津都督府を置いて羈縻州としたが、百済遺民を慰撫するため、665年、義慈王の王子の扶余隆を熊津都督・百済郡公・熊津道総管兼馬韓道安撫大使として旧百済王城の熊津城に入れ、その統治に当たった。その後、新羅の勢力が強くなり、都督府は撤退を余儀なくされた。高句麗、百済の地は新羅、渤海、靺鞨に分割され、百済の影響は朝鮮半島から完全に消滅する。677年2月、唐は扶余隆の封爵をかつての百済国王と同じ光禄大夫・太常員外卿・熊津都督・帯方郡王に格上げし、熊津都督府を回復しようとしたが、既に百済旧領は新羅領となっており、隆は熊津城に帰ることが出来なかった。682年、隆は洛陽に没し、輔国大将軍の爵号を追贈された。武則天が隆の孫の扶余敬に衛尉卿を授けて帯方郡王に封じたが、旧領の回復は全く出来ず、子孫も断絶した。1920年、扶余隆の墓誌が洛陽で出土し、中国史料や『三国史記』などには記載されていない隆の経歴や爵号、生没年などが判明した。
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