百済弔使の訪問(皇極元年)
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「吉士磐金」の記事における「百済弔使の訪問(皇極元年)」の解説
それから19年後、草壁吉士磐金(くさかべ の きし いわかね)という男が『書紀』巻第二十四に登場する。 舒明天皇が崩御し、皇后の宝皇女(皇極天皇)が即位したが、この年(642年)、百済から帰国したばかりの阿曇連比羅夫(あずみのむらじひらぶ)が筑紫国から早馬で駆けつけ、百済が弔使を派遣してきたので、隨行してきたと報告した。その際に百済で内紛が起きていることを伝えたため、2月に比羅夫と草壁吉士磐金と、倭漢書直県(やまとのあや の ふみ の あたい あがた)を百済の弔使のところに派遣し、義慈王即位後の百済国内の様子を尋ねさせた、とある。 この草壁吉士磐金も、実は吉士磐金と同一人物ではないか、とも言われている。『書紀』巻第十四には、推定454年、安康天皇の時に大草香皇子に殉じた難波吉士日香蚊(なにわのきしひかか)の子孫に、雄略天皇が推定470年に大草香部吉士の氏姓を授けた、という記事が見える。 ただし、同一人物だとすると、かなりの老齢になる。
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