百済人成との同一人説
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/10 06:21 UTC 版)
淳和朝の天長3年(826年)『令義解』撰定を指示する太政官符に白金が養老律令修定の事業に加わった旨の記載がある。一方で、養老6年(722年)に養老律令選定者(矢集虫麻呂・陽胡真身・大倭小東人・塩屋吉麻呂ら)に対する褒賞が行われた際、白金の名はなく代わりに百済人成が賜田4町を与えられている(この時の人成の位階は正八位下)。また、天平宝字元年(757年)この養老律令選定者の功田を大宝律令撰定者の下毛野古麻呂の功と同等(下功)として、各人の子に伝えることを許されており、その中でも百済人成の名前が含まれている(この時の人成の位階は正六位上)。これを根拠に、百済人成と白金を同一人物とみなす説がある。二人を同一人物とした場合、天平宝字元年(757年)12月から翌天平宝字2年(758年)7月までの間に改名したことになる。
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