百済との関係とは? わかりやすく解説

百済との関係

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/31 15:13 UTC 版)

夫余」の記事における「百済との関係」の解説

百済建国には、いくつかの説がある。朝鮮史料『三国史記』では、高句麗始祖朱蒙夫余王族の娘との間に生まれた子が百済建国したことになっている。はじめ10人の家臣と共に建国したため国号を「十済」としたが、百姓たちも建国協力したので、「百済となったとされる一方中国史『隋書』百済伝は、もう少し現実的なことが記録されている。すなわち、夫余王の尉仇台高句麗に国を滅ぼされて、百家とともに海を渡った(済海)ので、国号を「百済」としたと記されている。 夫余は、もと玄菟郡所属していたが、公孫度が、海東勢力をふるうようになり、その支配下置かれるようになった公孫度は、夫余王の尉仇台に娘を嫁わせて、鮮卑高句麗などを牽制させようとした。正始年間、魏の毌丘倹は、高句麗討って玄菟大守派遣して夫余至った以後夫余中国王朝支配下入った。この夫余は、のちの百済建国関わりがあるとされる百済温祚王朝は、夫余を姓とし、その王都夫余称している。かつて中国東北地区にいた夫余南下して朝鮮半島南西部王朝開いたことはおおよそ想像できるが、依拠する文献によって異同があり、いちがいに説明できない。『三国史記』によると、百済始祖温祚王の父は、鄒牟あるいは朱蒙という。朱蒙は、北夫余から逃れてきて、その土地夫余王に非凡な才能見込まれ、その王女を嫁わされ即位し沸流温祚という二王子が生まれるが、かつて朱蒙が、北夫余にいたころ先妻の生ませた太子現れたため、二人王子身の危険察して、国を脱出して十人臣下連れて南へ向かった。やがて、漢山に至り、負児嶽に登り、都すべき土地探そうとし、兄の沸流海辺留まるが、十人臣下諌めて、都を定めるべきだと進言したが、沸流承知せずに、弥鄒忽という場所へ行った。そこで、弟の温祚慰礼城即位して百済建国した。負児嶽、弥鄒忽などの地名現在の地名比定するのは難しいが、朝鮮半島縦断する夫余南下を示す記録ではある。慰礼城が、大韓民国ソウル漢江の南の地域指していることは、ほぼ異論のないところであり、ソウルオリンピック主競技場などがある江南に、初期百済土城遺跡保存されている。これに関して稲葉岩吉は「太康六年(285年鮮卑慕容氏襲撃され扶餘残黨は、長白山東沃沮逃げこんだというから、それが轉出し帯方入ったものが、即ち百済であろう」と指摘している。 帯方とは、後漢末期に楽浪郡から分割され一帯である。

※この「百済との関係」の解説は、「夫余」の解説の一部です。
「百済との関係」を含む「夫余」の記事については、「夫余」の概要を参照ください。

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