飛鳥時代・奈良時代の宗教と女性
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/26 07:46 UTC 版)
「日本の女性史」の記事における「飛鳥時代・奈良時代の宗教と女性」の解説
仏教が伝来し最初に仏門に入ったのは善信尼ら3人の女性であった。彼女らは豊浦寺で修業し、廃仏派に屈さず百済へ留学し日本に仏教を伝える役割を果たした。しかしその後の遣隋使や遣唐使に女性が加わることはなく、外交の舞台から女性は排除される。8世紀には正式な得度をした尼が僧と共に法会に参加し、公的な役割をもっていた。彼女らの能力は男性(僧)と変わらなかったことが『正倉院文書』から分かる。聖武天皇が国分寺を建立するさいには、光明皇后の意向もあって国分尼寺も併設されたが、定員や経営する領地規模には格差がある。また僧尼令では表向き僧と尼が対等であったが、尼は僧綱になることができず、実質的に僧の管理下に置かれた。 神道においては神祇官の規定に女性(御巫)を見出すことはできないが、『延喜式』では確認でき、少なくとも平安時代前期まで大嘗祭などの宮廷祭祀にも参加していた。一般的に神道では7世紀頃を境に祭祀者が女性から男性へ移行していったとされるが、古来男女が共同で担っていた祭祀者から女性が排除されていったとする説もある。7世紀後半から8世紀前半にかけて儒教、道教、密教の影響を受け、神道に女性不浄観が生まれる。神祇令の注釈書『古記』には祭祀で避けるべき穢悪(えお)について「生産婦女不見の類」と書かれている。 律令制時代以降、斎王と呼ばれる立場が制度化された。未婚の皇族女性が、天皇が代替わりをするたびに、伊勢神宮に一代のあいだ仕えた。この女性を斎王と呼び、斎王が住む宮殿を斎宮と呼んだ。制度として斎王が整備されたのは壬申の乱以降の大来皇女からで、斎宮は井上内親王が斎王を務めた時に整備された。 以上のように宗教行政においては女性を排除する傾向にあるが、一方で在地的な信仰においては男女差は小さい。仏教では和歌山県医王寺旧蔵の大般若経の奥書には男女が等しく写経事業の奉仕組織をつくり、中心的や役割を負った女性の名も記されている。行基は民衆の支持を集めたが、その中には多くの女性が含まれている。その理由として「儒教的家族道徳を強要する世相から女性が救済を求めた」とする説がある。神道では地方の祭祀にあたって男女が共に貢献物を捧げていた事を示す木簡が発見されており、『類聚三代格』には9世紀初頭まで女の祝(めのはふり)が居たと記されている。
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