飛鳥時代以降とは? わかりやすく解説

飛鳥時代以降

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/12/31 07:09 UTC 版)

式内楯原神社」の記事における「飛鳥時代以降」の解説

推古天皇15年607年)に中臣鎌子勅使として参拝し菊の御紋章賜ったまた、一条天皇参向して額一面奉納したという。 後醍醐天皇延元2年1336年)、皇太子杭全郷に行啓した折に楯原神社参向し、この地に行宮営んで御饗奉ったといい、さらに、高師直の軍から射られた屋が皇太子襟髪撃ち抜いて落ちた地を「打越」、矢を埋めて築いた山を「矢塚」と名づけ毎年神主馬上から矢塚に向かって矢を射る射返し神事」があったが元禄以後途絶えた。 これより先、楯原神社行宮北朝兵火罹って焼失し文明13年1481年)に原の旧社地から現社地近く遷座した。その後明応2年1493年3月社殿改築したが、元和年間暴風雨により破損したため、新たに社地社殿営み遷祀した。また、先の社地には字十五龍王社合祀し別に社殿建てて奥之宮」と称したが、これも元和兵火焼失した龍王社三十歩神社赤留比売命分霊喜連村十五奉祀していたものである。同年間に付近天神社孝元天皇)を合祀し、後に菅原道真を併祀して俗に天満宮」、正式には「天神社」を称するようなりいつしか楯原神社の本来の祭神忘れられ菅原道真のみを祭神とし、「原」の名は別殿奥之宮移り龍王社祭神である赤留比売命楯原神社祭神誤認されるようになったこのため明治5年1872年)、本来の楯原神社である天神社社格得ず別殿楯原神社村社となって両社並立の形となったこうした中で、明治39年1906年)に神社合祀発議されると、村社楯原神社村社東西神社、および無格社春日神社とともに天神社合併されることになり、明治40年1907年9月12日合祀祭行った東西神社はもともと「八坂神社」と称して素盞嗚命祀り、「牛頭天王」とも呼ばれたが、嘉永年間忍坂大中姫祀る天神合祀し、「東西神社」を称したのである。媛天神はもともと字山王の西に鎮座していたが、元禄のころに八坂神社境内に遷したもので、「東西神社」と称するのは氏子東西喜連またがって分布したことによる。しかし、このままでは由緒深い「原」の名が途絶えることになるため、明治43年1910年12月9日天神社東西神社春日神社の3社を楯原神社合祀し今日に及ぶ。 明治41年1908年1月には神饌幣帛料供進社指定された。昭和26年1951年)、東喜連氏子要望により、東西神社春日神社両社八坂神社として、元の東喜連分離遷祀した。

※この「飛鳥時代以降」の解説は、「式内楯原神社」の解説の一部です。
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