隆子女王 (斎宮)とは? わかりやすく解説

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隆子女王 (斎宮)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/08/27 14:46 UTC 版)

隆子女王
続柄 章明親王第一王女

出生 不明
死去 天延2年10月16日974年12月2日
伊勢国多気郡斎宮
(現:三重県多気郡明和町
埋葬 三重県多気郡明和町
父親 章明親王
母親 藤原敦敏
役職 伊勢斎宮
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隆子女王(たかこじょおう、生年不詳 - 天延2年10月16日974年12月2日))は、平安時代中期の皇族伊勢斎宮章明親王第1王女醍醐天皇皇孫[1]、母は藤原敦敏。斎宮済子女王の姉。

生涯

隆子女王の墓(明和町馬之上)

円融天皇の斎宮として、安和2年11月16日(970年)に卜定される[2]。翌天禄元年(同970年)9月8日、主水司初斎院入り[2]。同年9月30日、野宮に遷る[2]。同2年(971年)9月23日、伊勢群行[2]。3年後の天延2年(974年)閏10月16日[1]、流行していた疱瘡のため伊勢斎宮にて卒去[3]飛鳥時代以降、伊勢で在任中に亡くなった最初の斎宮である[4]三重県多気郡明和町には、宮内庁によって治定された隆子女王のが所在し、日本遺産「祈る皇女斎王のみやこ 斎宮」の構成要素となっている[5][6]

脚注

  1. ^ a b 親信卿記』天延2年閏10月23日
  2. ^ a b c d 日本紀略
  3. ^ 『日本紀略』。但し、天延2年閏10月17日とする。
  4. ^ 『親信卿記』天延2年閏10月27日、明和町観光協会「ええなぁめいわ
  5. ^ 隆子女王の墓”. 日本遺産ポータルサイト. 文化庁. 2023年8月6日閲覧。
  6. ^ 論・寄稿:「文化財」となった伊勢斎王の墓”. 中外日報 (2018年12月5日). 2023年8月6日閲覧。

参考文献

  • 芳賀登ほか監修『日本女性人名辞典』日本図書センター、1993年。
  • 山中智恵子『続斎宮志』(砂子屋書房、1992年) ISBN 4-7904-9221-4

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