江別古墳群とは? わかりやすく解説

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江別古墳群

名称: 江別古墳群
ふりがな えべつこふんぐん
種別 史跡
種別2:
都道府県 北海道
市区町村 江別市元江別
管理団体
指定年月日 1998.09.11(平成10.09.11)
指定基準 史1
特別指定年月日
追加指定年月日
解説文: 江別古墳群は,恵庭山系から石狩平野向かって北に延び野幌丘陵北西端縁辺部に位置する8世紀後半から9世紀中頃群集填である。
昭和6年後藤寿一により16基が調査され墳丘や墓坑とともに蕨手刀小刀鉄刀子,耳環土製紡錘車勾玉などの副葬品発見された。周辺には縄文続縄文時代遺跡存在しており,これらは発見者にちなん後藤遺跡総称されてきた。
古墳は,その後後藤守一により「北海道式古墳」と名付けられその呼称広まった昭和55年道路工事に伴う発掘調査確認調査により,後藤寿-の調査した古墳を含む21基の古墳調査され,3T5号墳の3基は工事奉り失われたがノ,18基が保存された。
古墳墳丘は既に失われているが,後藤調査報告などによれば径3、~10・m,高さ〇.3~1m程度墳丘をもつ円墳である。周清子深さ0.5;n以上の円形長円形あるいは馬蹄形呈する主体部1・13
は,長径約7m,短径5m規模をもち,馬蹄形周溝が巡る。主体部は,墳丘中央部掘り下げた長さ2.1ml0.7mの長方形の墓坑で,北西一南東方向主軸をとる。墓坑内には,埋葬した木棺痕跡確認きれ,東南部には歯と頭蓋骨痕跡残り蕨手刀の柄の一部とみられる鉄製品が出土している。周構内からは,一対把手がつく須恵器坪,内黒の土師器坪等が出土している。1与墳は仁直径が10mで,深さ2m円形周溝が巡る。主体部擾乱受けており,昭和55年調査時にはその位置のみが知られたが,鉄刀子片が出土し周溝からは鉄鋤先が出土している。
そのほか古墳の周清からは,須恵器坪,内黒のものを含む土師器杯,土師器襲,鉄鉱4号墳),土製紡錘車5号墳)などが出土している。須恵器本州から搬入されたものであり・,鉄製品甲多くもその可能性がある。
7~9世紀代の東北地方北部には,・直径10m前後円墳からなる群集墳造られたことが知られており,墳丘形態主体部の構準,出土品からみて,本古墳醇はこれら東北地方北部群集墳基本的には同じ種類のものである。これらの群集墳は,律令国家支配が及~だ東北地方市部と,直接支配及ばない東北地方北部北海道地域とが接触交流重ねる中で,律令支配地域からの強い影響下に成立した考えられる北海道央部の石狩川流域にほぼ限られ展開する同種の群集墳は3カ所で確認されていたが,2カ所は既に失われ,現在では木造跡の18基のみが残るに過ぎない
遺跡は,この種の群集墳北限を示す唯一の現存する遺跡として貴重であるとともに,8~9世紀における北海道地域年令支配及んだ地域との交流考え上で重要な遺跡である。
上のように,本遺跡は高い学術的価値有し希少なのである。よって,史跡指定し保存図ろうとするものである
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江別古墳群

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/19 00:23 UTC 版)

江別古墳群
江別古墳群
別名 後藤遺跡
所在地 〒067-0032北海道江別市元江別858番4
位置 北緯43度7分1.5秒 東経141度30分58.9秒 / 北緯43.117083度 東経141.516361度 / 43.117083; 141.516361 (江別古墳群)座標: 北緯43度7分1.5秒 東経141度30分58.9秒 / 北緯43.117083度 東経141.516361度 / 43.117083; 141.516361 (江別古墳群)
形状 末期古墳
築造時期 飛鳥、奈良、平安時代前期
史跡 国の史跡
特記事項 日本最北の古墳群
地図
江別古墳群
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江別古墳群(えべつこふんぐん)は、北海道江別市にある群集墳である。国の史跡に指定されている。日本にあるものの中では最も北に位置する古墳として知られる。

概要

古墳時代に古墳が盛んに造られたのは畿内を中心として九州南部から東北南部にかけての一帯であるが、北海道内にもわずかながら古墳は現存している。ただし、それは古墳時代(3世紀-6世紀)のものではなく、蝦夷征討の盛んに行われた飛鳥時代奈良時代平安時代前半すなわち律令時代に築造され、当時この地域で栄えていたといわれる擦文文化前半の時期に相当する。北海道の古墳で、現在発見されているのは恵庭市[1]江別市および札幌市[2]においてであり、なかでも江別古墳群は最北端に位置している。

江別古墳群は、江別市元江別の旧豊平川の段丘上にある。1931年に小学校の教師だった後藤寿一によって発見された。当時の資料によれば円墳20数基が確認され、うち16基について調査が行われた。以降、遺跡は後藤遺跡と呼ばれてきた[3]。1980年に高速道路関連の工事に伴って再調査が実施され21基の古墳が確認されたが、その後北海道道110号江別インター線の工事によって3基が破壊された。

1998年に「江別古墳群」の名称で国の史跡に指定された[4]

江別古墳群は7世紀から9世紀頃に築かれたと考えられている。個々の古墳は、直径3メートルから10メートル、高さ0.3メートルから1メートルの円形あるいは長円形の墳丘と、環状あるいは馬蹄形の周溝から構成されている。周溝の大きさは、直径8メートルから10メートルの大型のもの、5メートルから7メートルの中型のもの、5メートル以下の小型のものに区分される。元々はもう少し高さがあったようであるが、現在は風雨によって浸食されている。

江別古墳群は東北地方北部に分布する末期古墳と似た構造を持ち、また古墳から出土した遺物には本州からもたらされたと思われる須恵器鉄鏃、刀子、鋤先などがあった。この墓の被葬者については、東北北部と交流をもった北海道の有力者であるという説と東北地方からの移住者という説の2つがある[5][6]。いずれにしても、これらは当時の北海道と本州との交流を知る上で貴重な遺物でもある。

脚注

  1. ^ 1934年千歳郡恵庭村で発見された茂漁古墳群(柏木東遺跡)
  2. ^ 2011年4月北海道大学医学部陽子線研究施設付近で発見された古墳(札幌市K39遺跡)
  3. ^ 同名の縄文時代の遺跡が栃木市藤岡町都賀にある(後藤遺跡)。
  4. ^ 江別古墳群 - 国指定文化財等データベース(文化庁
  5. ^ 『北の古代史をさぐる 擦文文化』(1997)
  6. ^ 苫小牧駒澤大学:駒大在学生応援:インターネット講座■ 第4回 北海道と胆振地方の古代史アーカイブ

関連項目

参考文献

  • 北海道開拓記念館編集『北の古代史をさぐる 擦文文化』北海道開拓記念館・開拓の村文化振興会、平成9年10月。

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