和人か、アイヌか
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/03 12:28 UTC 版)
渡党の来歴についてはいくつかの説がある。 元北海道開拓記念館学芸員の海保嶺夫は、渡党とは「本州から渡ってきた党類」の謂いで、当時の西国にみられたような「悪党」的性格をもつ人々が蝦夷化したものと解釈した。この説に拠れば渡党のルーツは和人ということになる。時代の下った近世の文献である松前藩の歴史書『新羅之記録』では、渡党は和人が蝦夷地へ渡った一党であるとしている。 一方、考古学者の瀬川拓郎(元旭川市博物館長)は、渡党を道南日本海側に成立した古代青苗文化の負荷者の後裔に比定した。瀬川の考察によると、渡党は元来アイヌに帰属意識をもつ集団であったが、北東北から道南に移住してきた和人が既存の渡党の交易体制を浸食していく過程で自ら渡党を名乗るようになった。結果として渡党は次第に和人化していったと瀬川は推察する。 また、15世紀中葉のコシャマインの戦いに始まる道南の戦乱の時代に、和人とアイヌの対立軸が鮮明となるなかで、アイヌ系・和人系の渡党はいずれかの勢力に組み込まれて吸収されていったという関口明らの見方もある。 平山裕人は渡党を前期と後期に分け、14世紀には渡島半島から北東北に渡ってくるアイヌの交易者が渡党の主体であったのに対し、15世紀には和人の交易者に遷移していったのだろうとの見解を示した。 北海道江別市の国指定、江別古墳群の調査では、6世紀段階で既に北海道央部で広く和人が生活していた痕跡が確認されている。また、千歳市に所在する14世紀から15世紀にかけての集落遺跡、末広遺跡では、アイヌ集落の27基の墓のうち2基は和人特有の埋葬法がなされており、当時、石狩平野においてはアイヌと和人の混住もあったとみられる。『新羅之記録』でも、上述のように鵡川と余市を結ぶ線以南には広く和人が入り込んでいたことを記している。それによれば、少なくともコシャマインの戦いの前までは、アイヌと和人が平和に共存していたことになるが、それが可能であったのは両者を対等に結びつける交易があったからで、ラッコ皮、熊皮、昆布、鮭、鷲羽などの蝦夷地の産物が日本市場で重要な品目となるのは、やはり14世紀から15世紀にかけてのことだったのである。 なお、建久2年(1192年)源頼朝が重犯罪人を蝦夷地へ流刑とするように奏上し、実際に以降は強盗などを流刑としている。また、頼朝の奥州藤原氏征討から逃れた藤原氏被官も蝦夷地に渡ったと考えられている。『新羅之記録』には、頼朝による奥州合戦から逃れた者と流人の子孫が渡党である旨の記載があり、北海道庁『北海道史第一』(1918年)には、戦乱を逃れた和人、漂流者及び出稼ぎ者が渡党となったとの記載がある。また、『福山秘府』や『松前志』は、かつての道南の舘主らは渡党であったとしている。入間田宣夫は、安東太師季の渡島半島への渡海に随行して現地の守護職やその輔佐に任命された人々は、北東北の浪人衆やそれに類する人々であり、その一部は鎌倉時代の北条氏被官の後裔であったと想定している。ただし、奥州藤原氏自体が、当時の朝廷などから夷と呼ばれており、その影響から喜田貞吉ら戦前の研究者は、「和人化したアイヌ=東北地方の蝦夷」が蝦夷地へ渡ったものと唱え、長らく学会の定説となってきた。 昭和25年(1950年)、奥州藤原氏のミイラ調査の結果、アイヌの特色は見られず、特に藤原秀衡には当時のアイヌ人に存在しない歯槽膿漏が見られたことから和人であるとの鑑定が出ている。しかし4代に亘って和人と雑婚していれば和人化するとの意見もあり、結論は出ていない。 近年では、中世における「蝦夷」概念自体を再び見直し、アイヌ文化を受容した本州からの渡航者である渡党を含むとする意見もあり、渡党についての民族的所見はいまだ固まっていないのが現状である。
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