和人入植以前
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記録は残っていないが、当地のアイヌにおいてワッカウエンベツ川の川筋は、山向こうの現在の遠別へ出ていく交通路となっていたと考えられている。また、和人入植後も集落の入口近くにアイヌが居住していたとされるが詳細は忘れられている。
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和人入植以前
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/19 07:32 UTC 版)
和人入植以前の様子は記録が少ないが、幕末の探検家松浦武四郎は、1857年(安政4年)に天塩川を遡上し執筆した『天塩日誌』に次のように当地の様子とアイヌの伝承を記している。以下、吉田 (1964, pp. 447–497)に掲載の版を参考に、漢字は新字体に直し、アイヌ語名などが振り仮名として振られている箇所は括弧で表記した。強調は引用者による。 十一日。(引用注:安平志内川分岐点から)黎明発舟。(中略)是より左右共追々山峻く川は倍々急になる也。(中略)過ぎて両崖大石、舟に縄を付曳上り、カモイルウサンといふ高さ凡三百丈も有。絶壁恰も掌を立るごとし。峰には温杉(フフ モミ)、蝦夷松(シュンク)、岩に匍匐し実に猿愁蛇退(エンシュウジャタイ)の奇絶也。その半腹より大岩崩落けるが、これは往昔爰えエナヲ(引用注:イナウ)を供えず過しかば岩面崩て下行船を砕きしと。神威著しきとて土人等惣てエナヲと烟草、米等を一撮づつを供て上る。 — 松浦 (1861)、『天塩日誌』
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