和人とアイヌの関わり
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「クナシリ・メナシの戦い」の記事における「和人とアイヌの関わり」の解説
松前藩の『新羅之記録』には、1615年(元和元年)から1621年(元和7年)頃、メナシ地方(現在の北海道目梨郡羅臼町、標津町周辺)の蝦夷(アイヌ)が、100隻近い舟に鷲の羽やラッコの毛皮などを積み、松前でウィマムし献上したとの記録がある。また、1644年(正保元年)に「正保御国絵図」が作成されたとき松前藩が提出した自藩領地図には、「クナシリ」「エトロホ」「ウルフ」など39の島々が描かれ、1715年(正徳5年)には、松前藩主は江戸幕府に対し「十州島、唐太、千島列島、勘察加」は松前藩領と報告。1731年(享保16年)には、国後・択捉の首長らが松前藩主を訪ね献上品を贈っている。1754年(宝暦4年)道東アイヌの領域の最東端では、松前藩家臣の知行地として国後島のほか択捉島や得撫島を含むクナシリ場所が開かれ、国後島の泊には交易の拠点および藩の出先機関として運上屋が置かれていた。運上屋では住民の撫育政策としてオムシャなども行われた。1773年(安永2年)には商人・飛騨屋がクナシリ場所での交易を請け負うようになり、1788年(天明8年)には大規模な〆粕の製造を開始するとその労働力としてアイヌを雇うようになる。〆粕とは、魚を茹でたのち、魚油を搾りだした滓を乾燥させて作った肥料。主に鰊が原料とされるが、クナシリでは鮭、鱒が使用された。漁場の様子については北海道におけるニシン漁史も参照。 一方、アイヌの蜂起があった以前から、1643年にはオランダ東インド会社の探検船「カストリクム号」が択捉島と得撫島を発見、厚岸湾に寄港、北方からはロシアが北千島(占守郡や新知郡)即ち千島アイヌの領域まで南進しており、江戸幕府はこれに対抗して1784年(天明4年)から蝦夷地の調査を行い、1786年(天明6年)に得撫島までの千島列島を最上徳内に踏査させていた。千島アイヌは北千島において抵抗するも、ロシア人に武力制圧された上で毛皮税などの重税を課され、経済的に苦しめられていた。一部の千島アイヌはロシアから逃れるために、道東アイヌの領域の得撫島や択捉島などに南下した。これら千島アイヌの報告によって日本側もロシアが北千島に侵出している現状を察知し、北方警固の重要性を説いた『赤蝦夷風説考』などが著された。
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