和人とアイヌの関わりとは? わかりやすく解説

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和人とアイヌの関わり

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/04 03:18 UTC 版)

クナシリ・メナシの戦い」の記事における「和人とアイヌの関わり」の解説

松前藩の『新羅之記録』には、1615年元和元年)から1621年元和7年)頃、メナシ地方現在の北海道目梨郡羅臼町標津町周辺)の蝦夷アイヌ)が、100隻近い舟にの羽やラッコ毛皮などを積み松前でウィマムし献上したとの記録がある。また、1644年正保元年)に「正保御国絵図」が作成されたとき松前藩提出した藩領地図には、「クナシリ」「エトロホ」「ウルフ」など39島々描かれ1715年正徳5年)には、松前藩主は江戸幕府対し「十州島、唐太千島列島勘察加」は松前藩領と報告1731年享保16年)には、国後択捉首長らが松前藩主を訪ね献上品贈っている。1754年宝暦4年道東アイヌの領域の最東端では、松前藩家臣知行地として国後島のほか択捉島得撫島を含むクナシリ場所が開かれ国後島の泊には交易拠点および藩の出先機関として運上屋置かれていた。運上屋では住民撫育政策としてオムシャなども行われた1773年安永2年)には商人・飛騨屋クナシリ場所での交易請け負うようになり、1788年天明8年)には大規模な〆粕製造開始するとその労働力としてアイヌを雇うようになる〆粕とは、茹でたのち、魚油搾りだした滓を乾燥させて作った肥料。主に原料とされるが、クナシリでは使用された。漁場様子については北海道におけるニシン漁史参照一方アイヌの蜂起があった以前から、1643年にはオランダ東インド会社探検船カストリクム号」が択捉島得撫島発見厚岸湾寄港北方からはロシア北千島占守郡新知郡)即ち千島アイヌの領域まで南進しており、江戸幕府はこれに対抗して1784年天明4年)から蝦夷地調査行い1786年天明6年)に得撫島までの千島列島最上徳内踏査させていた。千島アイヌ北千島において抵抗するも、ロシア人武力制圧され上で毛皮税などの重税課され経済的に苦しめられていた。一部千島アイヌロシアから逃れるために、道東アイヌの領域得撫島択捉島などに南下した。これら千島アイヌ報告によって日本側もロシア北千島侵出している現状察知し北方警固重要性説いた『赤蝦夷風説考』などが著された。

※この「和人とアイヌの関わり」の解説は、「クナシリ・メナシの戦い」の解説の一部です。
「和人とアイヌの関わり」を含む「クナシリ・メナシの戦い」の記事については、「クナシリ・メナシの戦い」の概要を参照ください。

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