和人入植後の利用・採集
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/25 05:55 UTC 版)
「ハスカップ」の記事における「和人入植後の利用・採集」の解説
明治期以降、前述のようにハスカップが多く自生する勇払原野を中心とする地域にも和人が入植し、アイヌから和人にも食べる文化が伝わったと考えられている。 このため、勇払原野を中心とした地域では、かつてハスカップの実がなる季節に一斗缶や牛乳缶を背負って原野に野生のハスカップを摘みに行く文化があった。例えば1947年(昭和22年)頃の苫小牧市立沼ノ端小学校では「ハスカップ休暇」として、ハスカップの最盛期の7月に児童をハスカップの摘み取りに行かせるために3日間休校するほどであった。摘んだハスカップは前述のように日持ちしないため、家庭では塩漬け、砂糖漬け、焼酎漬けなどとして保存食とし、特に塩漬けは梅干し・梅漬けの代用品として用いられた。また、摘んだハスカップは市場にも出荷された。こうした経緯もあり勇払原野を中心とした地域において、下記に示すようにハスカップは生活に深くかかわる特別な存在であった。 作物はなかなか育たず、ハスカップを口に入れながら開墾した。 — 開拓で苫小牧市弁天地区に入植した女性の証言 厚真町豊沢の原野の一角にヤチグミ(引用注:ハスカップ)の採れる高台がありました。(中略)集落の人たちは田植えを終えると、この高台に集まります。ヤチグミの木は高さが人の背丈ほどなので、田植えで腰を曲げ通しだったのを伸ばすのにちょうどよいのです。(中略)開拓以来このヤチグミは珍重され、塩漬けにされて冬も食卓に乗りました。また、砂糖と焼酎で漬け、ハスカップ酒にして飲むと体にもよいといわれていました。田植えが終ったあとのヤチグミ採りは集落の人たちの楽しみのひとつでもありました。 — 「田植えの後のヤチグミ(ハスカップ)採り」、『日本一のハスカップの町 厚真町』より 青森県出身の祖母が、戦後何もなかったときに自生していたハスカップを近所の人たちと摘みに行って、孫である私に食べさせてくれたことが記憶にあります。樽前山神社のお祭りの宵宮で、白い砂糖をたっぷりとかけて食べることが何よりの楽しみでぜいたくでした。ほろ苦く甘酸っぱく素朴な野原のにおいがして、赤ひげさんのようになりながら口いっぱいにほおばった思い出が蘇ります。果物が育たない苫小牧では、ハスカップはまさに市民の宝だったのです。 — 大西 育子、「第4回環境コモンズフォーラム ハスカップ新時代に向けて~勇払原野の風土と資源を持続的に共有するためのイニシアチブ~」での発言 昭和30年代に入ると、菓子会社の三星が自社の菓子原料として、採集したハスカップを買い取る動きが生じたこともあり(後述)、ハスカップ摘みは小遣い稼ぎを目的として、主婦や老人・小学生の間で急激に増えた。時期になると自生地を通過する苫小牧市営バス路線にはハスカップの採集を目的に、乗る人々の行列ができるほどであった。 三星によると、当時は毎年8 - 10トンのハスカップを勇払原野の野生株からの採集で賄っていたという。
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