キウス周堤墓群とは? わかりやすく解説

キウス周堤墓群

名称: キウス周堤墓群
ふりがな きうすしゅうていぼぐん
種別 史跡
種別2:
都道府県 北海道
市区町村 千歳市中央
管理団体 千歳市
指定年月日 1979.10.23(昭和54.10.23)
指定基準 史1
特別指定年月日
追加指定年月日
解説文: S54-6-027キウス周堤墓群.txt: 北海道道央部・勇払平野から石狩平野にかけての低地帯の東寄り馬追丘陵西側にキウス周堤墓群がある。この遺跡は、大正13年河野常吉が「キウスのチャシ」として学会報じ昭和5年には内務省史跡に仮指定したことがある昭和25年頃、その一部第7号)で石柱発見され河野広道調査し石柱を伴う墓壙一を確認している。このころからこの種の遺跡は「環状石籬」と関連させて「環状土籬」と呼ばれるようになったが、この呼称近年の研究成果により適切でないとされる至っている。昭和3940年には、千歳市教育委員会による発掘調査が行われている。
 この遺跡は、東側丘陵から長都沼にそそぐ小河川南岸に7基、北岸に1基、及びその西南方3キロメートルほどにわたる広い範囲に6基、合わせて14基の環状の周堤が存在していたもので、その内10基は顕著な景観をなして現認される。周堤は大小があるが、外径最大75メートルから最小18メートル、周堤幅数メートルから約20メートルに及び、高さは周堤内部から掘りとった土を積んだのである。周堤は互いに接しているものもあり、また周堤の一部低くなるものもある。このうち第一号「環状土籬」の内部設定されトレンチ発掘調査土壙墓5が検出された。墓壙は長径1~2メートル長円形のもので、立石等や小穴を伴うものがあり、その一部からは遺体一部遺存認められている。さらに土壙上には多数土器片が認められた。これにより先述第7号成果合わせて、周堤内多数の墓が営まれ集合墓の一種であることが明らかとなったまた、堤外辺でも墓壙が確認されている。
 墓壙内外からの出土品繩文時代後期末~晩期初頭属す土器石棒等であり、この遺跡造営年代示している。
 この種の遺跡は、北海道内相当数知られ、しかも一遺跡複数の周堤とその内部に多数土壙墓がある例が多いもので、時期的に繩文時代後・晩期営まれたものである。それらの遺跡の内でキウス周堤墓群は最も多数の周堤墓群は最も多数の周堤が集合し、かつ個々規模も大であり、全体規模も最も広大なもので、道内における「環状列石」や通常の土壙墓共通する点を有しひいては本州以西の「環状列石」等とも関連する点をもつものである

キウス周堤墓群

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/03/22 14:28 UTC 版)

キウス周堤墓群
史跡キウス周堤墓群(2020年11月撮影)
種類集団墓
所在地北海道千歳市
座標北緯34度46分55.3秒 東経137度28分59.9秒 / 北緯34.782028度 東経137.483306度 / 34.782028; 137.483306座標: 北緯34度46分55.3秒 東経137度28分59.9秒 / 北緯34.782028度 東経137.483306度 / 34.782028; 137.483306
面積約5万平方メートル[1][2]
管理者千歳市[3]
登録日1979年(昭和54年)10月23日
キウス
周堤墓群

キウス周堤墓群(キウスしゅうていぼぐん)は、北海道千歳市にある縄文後期の集団墓8基で構成される史跡[4]。石狩低地帯を臨む緩斜面に位置する[5]1979年10月23日に国指定の史跡となった[3]2021年(令和3年)、「北海道・北東北の縄文遺跡群」として世界文化遺産に登録された。

概要

史跡内には、縄文時代後期(およそ3200年前[1])に作られたとされる、複数の墓が点在する。墓はそれぞれ「 - 号」と割り振られており、全8基の墓が存在する。縄文時代に作られた墓としては、日本最大。

名称は墓の周りをが囲っていることから名付けられたもの。現在地表面で見られる各々の墓は、円状に土を掘ったのち、掘った土をその周囲に盛って作られた。史跡で見つかっているものには盛土遺構や建築物の跡も見られる。出土したものには土器や木製品などがあり、江別市に位置する北海道立埋蔵文化財センターで保存、見学することが可能である。

学説史

  • 1901年(明治34年)に河野広道により発見され、「チャシ[6]として報告された。
  • 1919年(大正8年)鳥居龍蔵ツングース族の植民地の砦跡と考えた。
  • 1937年(昭和12年)原田二郎は、土層断面などの観察からチャシ説に疑問を唱えた。
  • 1948・49年(昭和23・24年)河野広道は斜里町朱円遺跡で土堤を確認し環状土籬(籬は垣根の意)と呼称する。
  • 1964年(昭和39年)大場利夫・石川徹は千歳市のキウス1・2号を発掘。
  • 1977年(昭和52年)木村英明は恵庭市柏木B遺跡や千歳新空港建設予定地内の発掘で共同墓地としての性格を明らかにした。それ以来、周堤墓や竪穴墓の呼称が用いられている[7]

データ

  • 史跡面積 - 約5万m2[1]
  • 史跡指定日 - 1979年10月23日
  • 最大墓 - 直径75m、高さ5m、深さ(墓穴)2m
  • 所在地 - 北海道千歳市中央410-2他
  • 管理 - 千歳市役所教育委員会埋蔵文化財センター

脚注

  1. ^ a b c キウス周堤墓群”. 千歳市 (2018年3月23日). 2018年5月21日閲覧。
  2. ^ キウス周堤墓群 - 北海道文化資源データベース
  3. ^ a b キウス周堤墓群 きうすしゅうていぼぐん - 文化遺産オンライン
  4. ^ “キウス周堤墓群を学ぼう 千歳の市民団体、24日イベント 初めて現地ツアー”. 北海道新聞 (北海道新聞社). (2014年8月21日). https://archive.fo/j0j2c (アーカイブ版)
  5. ^ 北海道・北東北の縄文遺跡群 まるごとナビ2022”. 縄文遺跡群世界遺産本部(三内丸山遺跡センター世界文化遺産課内). 2024年12月1日閲覧。
  6. ^ アイヌ語で砦の意
  7. ^ 田中琢佐原真編集代表『日本考古学事典』三省堂 2003年2月 執筆分担は小林達雄

参考文献

関連項目

外部リンク




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