宮畑遺跡とは? わかりやすく解説

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宮畑遺跡

名称: 宮畑遺跡
ふりがな みやはたいせき
種別 史跡
種別2:
都道府県 福島県
市区町村 福島市岡島
管理団体 福島市
指定年月日 2003.08.27(平成15.08.27)
指定基準 史1
特別指定年月日
追加指定年月日
解説文: 宮畑遺跡は、福島市流れ阿武隈川左岸位置し標高約60mの河岸段丘上に立地する平成9年福島工業団地造成に伴い福島市教育委員会発掘調査実施したところ、縄文時代中期焼失住居跡後期敷石住居跡など、縄文時代中期から晩期までの数多く遺構発見され縄文時代集落跡存在想定された。福島市では遺跡重要性考え工業団地造成工事一時中断するとともに福島市教育委員会平成10年度より遺跡範囲内容確認目的とした調査実施した
 調査結果縄文時代中期後期晩期の各時期集落跡確認された。特に晩期集落跡は本遺跡主体をなし、前葉から中葉にかけてその構造判明している。中央広場考えられる東西45m、南北60mの空閑地があり、それを中心に掘立柱建物群が環状に巡る。掘立柱建物1間四方の4本で、環状掘立柱建物群の北西では痕跡の径が60から90cmの大型のものがあるが、それ以外は30cm程度主体である。埋甕との関係から、葬送儀礼関連する施設考えられるが、竪穴住居少ないことからこれらの建物跡一般的な居住施設であった可能性もある。外側接して埋葬施設考えられる埋甕が群を形成して配置される。数は少ないものの、環状掘立柱建物群の北西側から竪穴住居南西側から土坑墓検出されている。環状掘立柱建物群から離れた西側低地に向かう斜面には大量遺物廃棄されており、捨て場考えられる出土遺物では、大量土器石器のほかに土偶石剣石刀などの祭祀遺物出土している
 中期後期集落晩期集落重複しているため、集落構造は明確ではないが、数多く竪穴住居などの遺構確認されており、拠点的な集落考えられる中期集落焼失住居が多いことが注目される。これは廃棄の際に、竪穴住居に火をつけて燃やしたもので、重複関係、出土土器等から一定期間わたって住居焼いていたことが明らかとなった焼失住居からは炭化した建築部材屋根材のほかに、焼土塊が出土していることから、土が屋根被覆していたことが確認できる後期晩期集落重複しているため構造は明確ではないが、敷石住居土坑埋甕捨て場等から構成される
 宮畑遺跡は、縄文時代中期後期晩期の各時期集落跡であり、特に縄文時代晩期では集落構造出土遺物から東北南部代表する拠点集落考えられ縄文時代社会考え上で極めて重要な遺跡である。また、晩期集落については集落構造全体判明したものとしては当該地域における初めての事例である。よって史跡指定し保護図ろうとするものである
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宮畑遺跡

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/06/25 09:19 UTC 版)

宮畑遺跡史跡公園
宮畑遺跡のムラ跡
分類 都市公園(歴史公園)
所在地
福島市岡島字宮田
開園 2015年(平成27年)8月8日
運営者 福島市
駐車場 あり
告示 2009年(平成21年)8月3日
公式サイト 福島市HP
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座標: 北緯37度47分25秒 東経140度30分52秒 / 北緯37.79028度 東経140.51444度 / 37.79028; 140.51444

宮畑遺跡

宮畑遺跡(みやはたいせき)は、福島県福島市岡島にある縄文時代遺跡。縄文時代中期(約4,500 - 4,000年前)、後期(約4,000 - 3,000年前)、晩期(約3,000 - 2,500年前)の3つのムラ(集落)の跡が複合している遺跡である。2003年に国の史跡に指定された。また、都市公園(歴史公園)として整備され、2015年(平成27年)に開園した。

遺構

縄文中期のムラ跡

宮畑遺跡の縄文中期のムラ跡からは約40棟の竪穴建物が検出されている。この時期の宮畑遺跡の建物は、屋根に土をのせ、複式炉を備えたものであった。また、建物遺構の半数は焼けた痕跡が見出された。このようなムラの半数の建物が焼かれているという現象は他の縄文中期の遺跡では確認されておらず、宮畑遺跡の謎であるとともに特徴の一つでもある。

縄文後期のムラ跡

宮畑遺跡の縄文後期のムラは、前述した中期のムラと連続性はなく、約4,000年前に新たにこの場所に移住してきた人々によって営まれたムラであると考えられる。この時期につくられた宮畑遺跡の建物の中には地表面に石を敷いて床とした「敷石建物」と呼ばれる遺構がいくつかある。敷石建物は関東地方にしばしば見られる建物跡で、また、この時期の遺構から出土した土器群は関東地方の土器群と同じ特徴をもつものが多く、この時期のムラは関東地方の影響を強く受けていたと思われる。このほか、この時期のものとしては竪穴建物や埋甕(土器埋設遺構)が検出されている。

縄文晩期のムラ跡

この時期のムラ跡からは、掘立柱建物が円形に配置されている遺構が検出されている。中には直径90センチメートルの掘立柱を立てたと思われる巨大な柱穴跡が長方形に区画された遺構も検出されている。おそらくは祭祀などのムラの行事の際に使用されていたと推定されている。円形に配置された掘立柱建物遺構群の外側には子供のと思われる埋甕(土器埋設遺構)を多数検出している。

遺跡の保存

宮畑遺跡は、もとは工業団地開発のために発掘調査されていたが、1998年に大型柱穴が検出されたことがマスコミにより報道されて以降注目されるようになり、2003年に国の史跡に指定された。市は遺跡の保存を決定し、将来的には史跡公園の整備などを計画している。2007年8月には、宮畑遺跡史跡公園(仮称)の愛称が、じょーもぴあ宮畑に決まった[1]。また、毎年10月には宮畑縄文まつりが開催されている。

なお、2008年に福島市が伊達郡飯野町を編入したことにより、同市内にある国の史跡に指定された縄文時代の遺跡は、中期末葉を主時期とする和台遺跡と本遺跡の2件となった。

脚注

参考文献

  • 福島市教育委員会『ふくしまの歴史1 原始・古代』2005年

関連項目

外部リンク



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