長都沼
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/02/22 10:27 UTC 版)
長都沼(おさつぬま)は、かつて北海道千歳市にあった沼。21世紀現在は干拓が完了し、跡地に走る水路が旧長都沼と呼ばれている。
名称について
アイヌ語名はオサツトウ (Osat-to) で、長都川が流入するためにこう呼ばれたと言われる[1]。長都川は、アイヌ語のオサツナイ (Osat-nay) で、「川尻・乾く・沢」の意[2]。
なお、「シコツ」という地名が「千歳」に改められた1805年(文化2年)前後に、この沼のことを「シコツ沼」と記した幕吏らの旅行記が3点残されている[1]。シコツ川(千歳川)が流入するのでシコツ沼、と理由付けされているが、本来「シコツ沼」とはシコツ川が流出する支笏湖のことであり、「長都沼 = シコツ沼」とするのは、支笏湖の存在を知らない和人に見られる例であった[1]。
地理
長都沼は、日本海側の石狩から太平洋側の勇払に至る石狩低地帯の、ほぼ中央に位置していた[3]。沼一帯の地形は周辺よりも低く、丘陵地からの河川が流入して、水を集めるようになっていた[4]。
また、長都沼の北東の長沼町域には、馬追沼が存在した[5]。1896年(明治29年)の地図では、馬追沼の沼尻と長都沼とを、イカベツ川が紐帯のようにつなげているのが確認できる[5]。この馬追沼もまた、干拓されて農耕地へと変化した[5]。
歴史
かつて、広大な長都沼は、石狩から太平洋側へと抜ける際の、舟運の要衝だった[1]。しかし明治時代以降、周辺地域への入植や開拓が進行する中で、河川の氾濫が絶えない低湿地の長都沼一帯の開発には、排水網の整備が求められるようになった[4]。
1941年(昭和16年)、東京などの大学生を編成した「学生義勇軍」によって、後に「大学排水」と呼ばれることになる排水路が掘削されるが、目標の1200メートルの1/3程度しか掘ることができず、長都沼から水が流れ出すことはなかった[1]。
事業は札幌土木現業所に引き継がれ[4]、1946年(昭和21年)から3年計画で排水路の再掘削が行われた[1]。1957年(昭和33年)着工の長都新水路工事によって、千歳川が長都沼から切り離され、さらに長都川と祝梅川がこの新水路に合流するようになり、長都沼を完全に周辺の河川水から独立させたことで、干拓の足掛かりができた[6]。1961年(昭和37年)からは、沼のほぼ中央を南北に縦貫する「第14号幹線排水路」が着工し、干拓の完了が決定的なものとなった[7]。
1987年(昭和62年)から7年間をかけて、「第15号排水川」または「広幅排水路」が、幅130メートル・長さ1920メートルの水路へと拡大され、残った水も千歳川へと排出されるようになった[1]。
こうして長都沼があった一帯は畑地へと変わり、ジャガイモなどが栽培されている[1]。また環境省は、旧長都沼および周辺農地がコハクチョウ・ヒシクイ・マガンの渡来地であるため、「生物多様性の観点から重要度の高い湿地」No.056に選定している[8]。
ギャラリー
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長都沼展望台
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展望台から見た旧長都沼
脚注
参考文献
- 小野順一、竹内一重、梅田安治「長都沼とその周辺低地における排水と農地の開発 (I) -技術史-」『土木試験所報告』第79号、北海道開発局土木試験所、1982年3月31日、1 - 27頁。
- 『新千歳市史』 通史編 上巻、千歳市、2010年3月19日。
座標: 北緯42度54分10.2秒 東経141度40分36秒 / 北緯42.902833度 東経141.67667度
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