川尻石器時代遺跡
名称: | 川尻石器時代遺跡 |
ふりがな: | かわじりせっきじだいいせき |
種別: | 史跡 |
種別2: | |
都道府県: | 神奈川県 |
市区町村: | 相模原市 |
管理団体: | 相模原市(昭6・11・27) |
指定年月日: | 1931.07.31(昭和6.07.31) |
指定基準: | 史1 |
特別指定年月日: | |
追加指定年月日: | 平成18.07.28 |
解説文: | 相模川ニ臨ム臺地ノ一端小字谷ヶ原及小字久保沢ノ地域内ニアル石器時代ノ住居阯群ナリ地域内石敷ノ埋没ヲ認メラルヽトコロ三十二箇所アリ今日迄発掘セラレタルハ五箇所ナリソノ中三ヶ所ハ最近ノ試掘ニ係リ一ハ字谷ヶ原七百八十三番ノ地域ニアリ東西約十尺南北約十七尺徑一尺及至五寸大ノ川原石ヲ敷キ中央ニ爐ヲ設ケ敷石ノ缺失セル部分アリテ原形ヲ確ムルコト能ハザルモ畧楕円形ヲ呈セリ二ハ七百八十七番ノ地域ニアリ敷石ノ移動缺失甚ダシク形状分明ナラズ三ハ同七百八十九番ノ地域ニアリ東西約九尺南北約二十一尺同ジク一尺乃至五寸大ノ石ヲ敷キ詰メ南端ニ近ク二個ノ爐ヲ設ケモトコノ地域ノ北方隣接地七百八十八番ノ地域ニ石敷ヲ存セシモ既ニ取リ除カレテ今其ノ接續状態ヲ明カニスルコト能ハズ全体ノ地域ニ亘リ多数ノ石器土器ヲ出セリ |
川尻石器時代遺跡
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/02/11 14:47 UTC 版)

川尻石器時代遺跡(かわしりせっきじだいいせき[1])は、神奈川県相模原市緑区谷ヶ原にある縄文時代中期~後期(約5500~3500年前)の集落跡を中心とする、旧石器時代から平安時代にかけての複合遺跡。国の史跡に指定されている。
概要
相模川が丹沢山系を抜けて相模台地に広がる河岸段丘が始まる地域に位置し、標高は約140m[2]。川尻の名は旧地名(川尻村)に由来している。発見当初は十分に遺跡に関する研究が進んでおらず、石器時代の遺跡と考えられたため名称に「石器時代」遺跡と命名された[3]が、後に遺跡の大部分は縄文期の遺跡と判明した。遺跡の下層には縄文時代中期の竪穴建物跡、上層には縄文時代後期の敷石建物跡等、合計80軒以上の建物跡が確認されている[2]。
最初の発見時期は不明だが、大正年間には既に豊富な遺物が見つかっており、1929年(昭和4年)縄文時代後期とみられる柄鏡形敷石建物跡1軒が検出され、1931年(昭和6年)7月31日に国の史跡に指定された[1][4]。その後も範囲を広げながら発掘調査は続き、1989年(平成元年)の調査で、縄文時代中期の竪穴建物46軒、後期の敷石建物跡1軒などが確認され、それまでに知られていなかった古墳時代~平安時代の集落跡や旧石器時代の遺構・遺物も出土した[4]。その後の発掘調査、研究によって遺跡の全容が明らかになったことから、2001年(平成13年)1月29日、2004年(平成16年)9月30日、2006年(平成18年)7月28日に相次いで国の史跡の指定範囲が追加され[1]、遺跡全体の総面積は23,356.62平方メートルにおよんだ[5]。
敷石建物跡やその周辺からは多くの遺物も見つかっており、落とし穴の遺構、打製石斧、石匙、石鏃、石剣、敲石、砥石、石皿、石棒、甕形土器、土偶、土製円盤などが出土している[2]。また、縄文末期の建物群跡では配石遺構や配石墓群が見られるのと合わせて、集落の中央を掘り下げて窪地化した造成の痕跡が見られ、窪地から焼骨が大量に出土するなど、墓や弔いの文化に繋がる特異な縄文文化の変遷を残している[1][2][5]。
所在地
- 相模原市緑区谷ヶ原2丁目788-2・789-1ほか
交通
参考画像
-
画像1
-
画像2
-
画像3
-
画像4
脚注
- ^ a b c d 史跡川尻石器時代遺跡(相模原市公式ホームページ)
- ^ a b c d 相模原情報発信基地 国指定・川尻石器時代遺跡(相模原の遺跡)
- ^ 文化遺産オンライン 川尻石器時代遺跡
- ^ a b c コトバンク 川尻石器時代遺跡 国指定史跡ガイドの解説
- ^ a b c 相模原市観光協会ホームページ いい~さがみはら 川尻石器時代遺跡
関連項目
外部リンク
- 国指定文化財等データベース
- 史跡川尻石器時代遺跡(相模原市公式ホームページ)
座標: 北緯35度35分29.9秒 東経139度18分0.3秒 / 北緯35.591639度 東経139.300083度
- 川尻石器時代遺跡のページへのリンク