中高瀬観音山遺跡とは? わかりやすく解説

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中高瀬観音山遺跡

名称: 中高瀬観音山遺跡
ふりがな なかたかせかんのんやまいせき
種別 史跡
種別2:
都道府県 群馬県
市区町村 富岡市岡本中高瀬
管理団体 富岡市
指定年月日 1997.03.17(平成9.03.17)
指定基準 史1
特別指定年月日
追加指定年月日
解説文: 群馬県南西部長野県境に源を発する鏑川は、山地下り終えた富岡市域から川幅広げ高崎市内で利根川支流鳥川合流する。中高瀬観音山遺跡は、富岡市のほぼ中央位置し鏑川右岸標高230メートルほどの丘陵上に立地している。遺跡のある丘陵北端部は、小河川によって浸食をうけ、南北500メートル東西キロメートル細長い独立した丘陵として区切られる周辺部との比高は、50メートル以上あり、丘陵緑辺部は急斜面となっている。そのため遺跡からの眺望はよく、対岸富岡市街地をはじめとして鏑川流域一望のもとに見渡すことができる。丘陵頂部標高は、南部高く北部が低い。丘陵中央と南に、地形平坦な区域があり、2つ平坦部の中間中央平坦部の北は緩やかな斜面となっている。遺構は、平坦部と緩斜面存在し一部丘陵西側急斜面部にまで及んでいた。
 遺跡上信越自動車道建設工事に伴い平成元年度から2年間にわたり財団法人群馬県埋蔵文化財調査事業団発掘調査実施した丘陵頂部東西方向通過する高速道路予定部分発掘調査では、保存状態良好な竪穴住居跡掘立柱建物跡、柵跡等からなる弥生時代後期集落跡一部発見したその後群馬県教育委員会富岡市教育委員会が、路線外における遺跡範囲および内容を知るための確認調査行い遺跡全容明らかにした。
 調査結果、本遺跡には縄文時代から中世にいたるまでの遺構残存していたが、その主体弥生時代後期大規模な集落跡である。集落東西200メートル南北350メートル規模をもつ。竪穴住居は、丘陵中央の平坦部に濃密分布し、南の平坦部の緩斜面部にまで広がっていた。また、集落中央部では居住域周囲を柵で囲み南部には集落内部区画する濠まで備えていたことも判明した
 柵は、住居密集する平坦部の東側西側斜面発見された。直径30センチメートル深さ五〇メートルほどの柱穴がほぼ2メートル間隔で、等高線沿って直線的に並び数回建て替え認められる
 集落南部斜面部には断面形がV字形をした濠がある。濠は長さ65メートル、上幅2・3メートル深さ1・5メートル規模をもち、東西両端部は谷に向かって掘りぬかれていた。・この濠の南は丘陵上で標高が最も高い住居となっているが、住居とは近接せずに方形周溝墓一基単独存在する
 総数140棟を越え竪穴住居長方形をしている。長辺11メートル短辺メートル大型のものから長辺メートル短辺メートルほどの小型のものまであり、大型住居丘陵中央部住居密集する平坦部に集中している。火災受けている住居も多い。屋根、壁に用いられたと推定できる炭化材が検出され当時住居構造を知ることができる。大型住居主柱には厚さセンチメートル、幅3センチメートル痕跡による計測値)の木材用いているものが多い。住居外の土坑住居トンネル接続する特殊な住居も7棟発見されている。トンネル部分直径50センチメートル程度で、長さ最長のもので4メートル以上ある。
 掘立柱建物4棟平坦部に、六棟が丘陵西側急斜面部に存在する平坦部のものは倉庫考えられる急斜面部にある掘立柱建物なかには、柵の外側接して1間4方の小規模のものがあり、これは遺構眺望のよい場所に立地していることなどを考慮すると、物見台的な施設推定される
 遺物櫛描き文系統の土器縄文を施す在地系の赤井戸式土器を含む弥生時代後期土器はじめとして鉄鏃石鏃武器類石包丁石斧などの農工具類、その他紡錘車土製勾玉ガラス玉出土している。
 本遺跡周辺では、近年多く遺跡発掘調査されている。その成果から弥生時代後期集落遺跡は、河川に近い低位段丘部分よりも、むしろ河川から離れた上位段丘丘陵上に数多く立地することが判明してきた。さらに、弥生時代後期継続して営まれる拠点的な大規模集落存在する一方で小規模存続期間も短い集落が広範囲分布する状況も明らかとなっている。
 中高瀬観音山遺跡は、丘陵上に立地する大規模集落である。弥生時代中期から古墳時代後期までの各時期住居があるなかで、弥生時代後期のものだけが他の時期比較して圧倒的に多い。これは、この時期集落急激に膨張し直後急速に衰退していったことを示している。このような集落規模の変化と、柵、物見台等の施設設置は、北関東における弥生時代後期拠点的な大規模集落の形成と、当時の社会状況を知るために貴重な資料提供した。よって、史跡指定しその保存図ろうとするものである
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中高瀬観音山遺跡

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/07/13 14:10 UTC 版)

中高瀬観
音山遺跡
位置

座標: 北緯36度30分48秒 東経139度02分23秒 / 北緯36.51333度 東経139.03972度 / 36.51333; 139.03972 中高瀬観音山遺跡(なかたかせかんのんやまいせき)は、群馬県富岡市岡本・中高瀬にある弥生時代を中心とする複合遺跡。1997年(平成9年)3月17日に国の史跡に指定された。

位置と概要

中高瀬観音山遺跡は、富岡市街地南方、通称「離れ山」と呼ばれる独立丘陵上に位置する、弥生時代後期を中心とする集落跡である。「離れ山」は、北側は鏑川によって形成された河岸段丘、南側は野上川等の小河川によって浸食された谷になっており、南北の幅は約500メートル、東西の長さは約3キロに及ぶ。遺跡はこの丘陵の中央部西寄りに位置する。遺跡地の最高所は標高249メートルの尾根で、遺構はこの尾根から北へ向けて下る緩斜面と、その北方の平坦部にかけて分布する。弥生時代後期の建物跡は、この平坦部に集中する。平坦部の標高は225メートルほどで、北側は段丘崖、東と西は谷によって浸食され、いずれも急斜面になっている。崖下の水田(下位段丘面)との比高は50メートル以上あり、遺跡は周囲の眺望の良い場所に位置している。当地には縄文時代から中世に至る遺構が所在するが、その8割は弥生時代後期のものである[1]

上信越自動車道の建設工事に先立ち、1989年に財団法人群馬県埋蔵文化財調査事業団による発掘調査が実施された。その結果、当地には縄文、弥生、古墳、奈良の各時代の遺跡が存在し、なかでも弥生時代後期に大規模な集落が営まれていたことがわかった。日本道路公団は、富岡市及び群馬県教育委員会からの遺跡保存に関する要望を受け、上信越自動車道のルートの一部をトンネル化し、遺跡が保存されることとなった。その後1990年に群馬県教育委員会による確認調査が実施された。富岡市では遺跡地を将来的に歴史公園として整備することを計画し、国の史跡指定をめざすこととなった。そのため1990年と1991年に遺跡範囲確認調査を実施。遺跡は1997年3月17日付けで国の史跡に指定された。指定面積は47,329.28平方メートルである。1999年には都市計画決定が行われ、史跡指定地4.7ヘクタールを含む21.6ヘクタールが都市公園として整備されることとなった[2]

本遺跡では、竪穴建物跡約140棟、掘立柱建物跡10棟、柵列跡、土壙などが検出されている。観音山地区と呼ばれる、上信越自動車道のトンネル直上の平坦地に主要な遺構が集中している。そこから南へ上る緩斜面には溝(堀)が切られ、その南の尾根上の小平坦地にも小規模な集落が形成され、方形周溝墓が1基検出されている。遺構は弥生後期のものが主体だが、南の尾根上には弥生中期の建物跡も存在する[3]

遺跡の性格

本遺跡は、前述のとおり、周囲の水田との比高50から60メートルの見晴らしの良い場所に位置する高地性集落である。本遺跡の最盛期であった弥生時代後期は、中国の史書(『魏志倭人伝』、『後漢書』「東夷伝」)に「倭国乱」「倭国大乱」と記された時代であり、本遺跡にも木柵、物見台、狼煙など、戦乱への備えのための遺構が見出される。近年の研究により、倭国大乱の時代は、降水量がきわだって多かった時期であることが判明しており、気候変動が社会の不安定の一因であったともいわれている。本遺跡は周辺の弥生時代後期の遺跡に比べて規模が大きく、前後200年以上にわたって存続していることから、軍事的防御のみに特化した集落ではなく、地域の拠点集落でありながらきわだった高地に位置する、特異な遺跡と位置付けることができる。本遺跡の西方の丘陵上には、古墳時代前期の北山茶臼山古墳及び北山茶臼山西古墳があり、前者からは三角縁神獣鏡が出土している。年代的には、本遺跡の集落に住んでいた人々の後の世代がこれらの古墳を築造したことも想定される[4]

遺構

検出された竪穴建物跡は、長軸11メートル、短軸7メートルほどの大型のものから、5メートル×3メートルほどの小型のものまである。建物内部は北側に炉、南側に梯子を設けるものが一般的である。一般的な建物のほか、建物と外部の土壙とをトンネルで繋いだ特殊な建物が8棟ある。集落の変遷は第Ⅰ-第Ⅲ段階に分けて考えられている。第Ⅰ段階は中型建物が主体で、集落は中央平坦地(観音山地区)に集中している。第Ⅱ段階は斜面部にも建物が営まれるようになり、建物の規模は大型から小型まで多様化する。第Ⅲ段階は弥生後期終末から古墳時代にかかる時期で、観音山地区の集落は消滅し、西方の庚申山に小規模な集落が営まれる。検出された竪穴建物跡のうち3割以上が火災で焼失したもので、炭化材が検出されている。「075遺構」と名付けられた建物跡では、樹種特定された炭化材のうち7割がクリ材で、最大の柱はカヤ(榧)材であった。また屋根葺材はカヤ(茅)及びススキを使用していたとみられる[5]

掘立柱建物跡は、西側の傾斜地に方一間(柱間が正面・側面ともに1間)のものがあり、尾根上にはこれより規模の大きい建物跡があって、両者は用途を異にしているとみられる。方一間の建物跡については、物見台とする見方がある[6]

柵列跡は西側の傾斜地、及び、中央平坦地の縁辺(斜面部との境)に見出される。柱穴の径は15から30センチ、深さは50センチほどである[7]

中央平坦地には、焼土の詰まった土壙2基が確認されており、他遺跡の類例との比較から、これらは狼煙跡とみられる[8]

出土する土器は大半が弥生後期の樽式である。他に鉄鏃、石鏃、石包丁、石斧、紡錘車、土製勾玉、ガラス玉などが出土している[9]

脚注

  1. ^ 富岡市 2021, p. 2-2,3-16,17.
  2. ^ 富岡市 2021, p. 1-1,3-1,3,5,11.
  3. ^ 富岡市 2021, p. 3-11,12,15.
  4. ^ 富岡市 2021, p. 3-16,17.
  5. ^ 富岡市 2021, p. 3-5,15,18.
  6. ^ 富岡市 2021, p. 3-5,7.
  7. ^ 富岡市 2021, p. 3-5,15.
  8. ^ 富岡市 2021, p. 5-31.
  9. ^ 富岡市 2021, p. 3-15,22.

参考文献

  • 富岡市『史跡中高瀬観音山遺跡整備基本計画案』富岡市、2021年。 
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