遺跡の性格
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本遺跡は、前述のとおり、周囲の水田との比高50から60メートルの見晴らしの良い場所に位置する高地性集落である。本遺跡の最盛期であった弥生時代後期は、中国の史書(『魏志倭人伝』、『後漢書』「東夷伝」)に「倭国乱」「倭国大乱」と記された時代であり、本遺跡にも木柵、物見台、狼煙など、戦乱への備えのための遺構が見出される。近年の研究により、倭国大乱の時代は、降水量がきわだって多かった時期であることが判明しており、気候変動が社会の不安定の一因であったともいわれている。本遺跡は周辺の弥生時代後期の遺跡に比べて規模が大きく、前後200年以上にわたって存続していることから、軍事的防御のみに特化した集落ではなく、地域の拠点集落でありながらきわだった高地に位置する、特異な遺跡と位置付けることができる。本遺跡の西方の丘陵上には、古墳時代前期の北山茶臼山古墳及び北山茶臼山西古墳があり、前者からは三角縁神獣鏡が出土している。年代的には、本遺跡の集落に住んでいた人々の後の世代がこれらの古墳を築造したことも想定される。
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遺跡の性格
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/27 06:45 UTC 版)
上市黒川遺跡群として国の史跡に指定されているのは、円念寺山経塚(えんねんじやまきょうづか)、黒川上山墓跡(くろかわうえやまはかあと)、伝真興寺跡(でん しんごうじあと)の3か所である。各遺跡は、古来霊峰として信仰の対象となっている剱岳のふもとの丘陵上に位置し、中世前期(12 - 13世紀)に最盛期を迎えた経塚(仏教経典を弥勒仏が出現する未来の世に伝えるために埋納した遺跡)、墓地および山岳寺院の跡である。これらの遺跡は剱岳への信仰を基盤として、互いに関連をもちつつ成立したものであるが、中世後期(14 - 16世紀)には衰退し、17世紀以降はほとんど宗教活動の跡がみられない。これらの遺跡は、近世以降の剱岳信仰とは異なる形の、中世における信仰の実態を伝えるものとして貴重である。
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