遺跡の成因に関する論争
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/19 01:17 UTC 版)
曽根遺跡の成因については、遺跡の発見が学会に報告された明治41年以降、様々な仮説が提案された。その主なものは、橋本福松・田中阿歌麿らの「地すべり説」「陸地沈下説」、坪井正五郎・鳥居龍蔵らの「杭上住居説」「筏上住居説」といった、主として地質学的な見方と人類学的な見方が出され激しく対立した。その後もさらにさまざまな説が加わったが、どれも決め手がなく、論争は立ち消えとなった。昭和27年、藤森栄一・戸沢充則らの立ち木の根幹の取り上げによってかつて曽根遺跡が陸上にあったことが明らかとなり、「地質学的な原因による水没」で決着がついた。 旧石器時代から縄文時代にかけての石器(ナイフ形石器や石鏃など)や土器(爪形文土器)などが出土している。
※この「遺跡の成因に関する論争」の解説は、「諏訪湖」の解説の一部です。
「遺跡の成因に関する論争」を含む「諏訪湖」の記事については、「諏訪湖」の概要を参照ください。
- 遺跡の成因に関する論争のページへのリンク