遺跡の概要
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発掘時期は、昭和4年頃に開始したが、戦後しばらく中断。その後、清洲ジャンクションの建設工事が始まった昭和47年(1972)以来、本格開始。以降、断続的に実施されている[要出典]。 発掘機関は、愛知県教育委員会、清須市教育委員会、名古屋市教育委員会、公益財団法人愛知県教育・スポーツ振興財団(愛知県埋蔵文化財センター)である[要出典]。 縄文時代末期から弥生時代を中心に栄えた集落遺跡である。集落間の闘争の歴史と住民の生活の変化とその状況の両方を知ることができる。特に弥生時代中期の初頭~後半にかけて[要出典]は、他の集落の住民の襲撃に備え、強固な防御施設を建設していることがわかる。それは、環濠、柵列、逆茂木、乱杭などで、集落を二重、三重に囲む強固なものであった。これらは、弥生時代のものとしては日本で初めて発掘されている。今でも[いつ?]日本の弥生中期遺跡としては最大級である。[要出典]これらの防御施設の発見で、集落が城塞的な姿であったことが分かり、それまでの牧歌的な弥生時代のイメージを「戦乱の時代」へと大きく変える根拠になった。また、方形の墓制(方形周溝墓跡)も発見されており、古墳時代へ変遷の萌芽を窺い知ることができる。
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遺跡の概要
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/02/03 19:38 UTC 版)
遺跡には、尾根の先端上の約2000平方メートルの平坦地にあり、8基の竪穴住居跡と3本の環濠が発見されている。この遺跡は、高田平野を望む北端の斜面にせり出すように竪穴住居が並んでおり、南側には大きな広場と3本の環濠を持つ。出土した土器は弥生時代後期のものが大半を占めており、短期間に営まれた遺跡であることがわかる。また、出土物の中に、後期の弥生土器以外に、環状石斧、石剣や投弾を思わせる多数の礫など、戦いを想定させるものが多数発見されている。このことから、弥生時代後期の倭国大乱に関係する防御的な高地性集落とわかる。 なお、北陸地方には、裏山遺跡以外に、石川県杉谷チャノバタケ遺跡でも弥生時代後期の高地性の環濠集落が発見されている。
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遺跡の概要
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/12 04:46 UTC 版)
江戸時代から城跡と認識されており、1976年(昭和51年)には山梨大学考古学研究会による測量調査が行われる。1982年(昭和57年)には一部の発掘調査が実施され、堀跡など一部の遺構が確認され、青磁片や内耳土器、洪武通宝などの遺物が出土している。 北東や西側は内部に横堀を伴う土塁があり、南斜面には帯状の郭が数段にわたって広がり、防御施設が集中している。北は方形の平坦地が開け、内部には三角形の主郭部がある。 谷戸城は地域振興に際して注目されはじめ、1993年(平成5年)11月29日に国の史跡に指定され、1999年(平成11年)までに公有地化が行われる。
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遺跡の概要
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/03 05:53 UTC 版)
神雄寺跡は平城京と恭仁宮の内裏のほぼ中間、奈良山丘陵の北端に位置し、大和から山城に向かう通路に接している。遺跡群は西に開けた谷筋に集中しており、その部分の植生は切り払われている。北側の樹木が茂っている丘陵(天神山)の中腹に塔があった。南側の丘は現在住宅地になっている。遺跡の時期は、730年代後半から760年頃の第1期と、760年頃から780年代の第2期に分けられる。。神雄寺は同時期に平城京などで建立された寺院と比べて、建造物は非常に小型で簡素な構造であったが、『万葉集』の一首が書かれた木簡をはじめ、多種多様な調度品や法会に関する器物が大量に出土している。なお遺構に付した記号は発掘調査時の識別番号である。
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遺跡の概要
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/10 07:36 UTC 版)
段丘平坦面のほぼ中央に配石遺構があり、それを中心に縄文時代中期後半に営まれた大規模集落が広がっている。 台地は、奈良時代から平安時代初頭にかけて終末期古墳が構築されている。墳丘はすでに失われているが、いずれも馬蹄形の周溝をもち、外径8-9メートルの規模をもち、計20基を確認している。平安時代後期には東側と西側の地域に集落が営まれ、竪穴住居や土坑、溝跡などの遺構を検出している。さらに、中世には台地の西側が城館として利用されたらしく、竪穴遺構が見つかっている。このように、縄文時代以降も人びとによって継続的に台地が利用されてきたことが、調査の結果、判明した。 縄文時代中期半ばの円筒上層d式・e式土器、あるいは大木8a式土器が用いられた時期に、この台地上の東側、中央、西側の3地点で人びとの本格的な居住が始まったと見なすことができる。次の大木8b式期には、中央地点に環状配石遺構群とよぶべき祭祀の施設や、おそらくはそれにかかわるであろう盛土遺構が新たに構築され、集落は盛期を迎える。その後、3箇所点とも縄文時代中期末葉まで多数の住居が継続して営まれた。各地点とも、竪穴住居跡は径2-3メートルの小型のものから10メートルを越す大型の遺構もあり、集落全体で最終的に500棟以上の竪穴住居が営まれたと推定できる。 1996年(平成8年)度および1997年(平成9年)度の調査では、遺跡西側で発見された焼失住居について詳細な精査が行われ、焼土や炭化材の出土状況から、今のところ全国的にも類例のない縄文時代の土屋根住居の痕跡であることが具体的に実証された。
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遺跡の概要
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/01 22:41 UTC 版)
1964年、パウロ・マッティエ(Paolo Matthiae)率いるイタリアのローマ・ラ・サピエンツァ大学の考古学調査チームがテル・マルディーフの発掘を開始した。1968年、調査チームは、エブラの王イビット・リム(Ibbit-Lim)の名が書かれた女神イシュタルの像を発見した。この発見により、この遺跡が古代エジプトの碑文やアッカド語文書で名前だけは知られていたが所在は不明だった都市エブラであることが分かった。その後の10年で、調査チームは紀元前2500年から紀元前2000年ごろの宮殿を発見した。 宮殿廃墟からは楔形文字の書かれた保存状態のよい粘土板15,000枚が見つかった。80%はシュメール語だったが、残りはかつて見つかったことのないセム語派の言語で書かれており、「エブラ語」と呼ばれることになった。Pettinato と Dahood はこれを西セム語派の言語としているが、Gelb ほかはアッカド語に近い東セム語派と考えている。 楔形文字の発達した地である南メソポタミアとエブラとの深い関係は、シュメール文化と、シュメールの文書に登場する紀元前3000年頃より前に既に存在したであろうセム系文化との関係にもつながっている。エブラ語の語彙のリストが粘土板とともに見つかっており、これにより翻訳することも可能となった。 粘土板が発見された建物は、今では宮殿付属の図書館(ライブラリ)ではなく(これはまだ発掘されていない)、食糧備蓄・捧げもの・裁判・外交・交易契約など記録を残すための文書庫(アーカイブ)、および徒弟たちが文書の写しを作る写字室とみられている。大きな粘土板がもともと木の棚に並べられていたが、宮殿が破壊されたときに粘土板文書も床に落ち、火災で焼き固まり、結果的に良い状態で保存された。粘土板が見つかった場所は粘土板が床に落とされた場所であり、これを手掛かりにもともと棚のどの位置にどの文書がしまわれていたかを再構成することが可能になった。そこから、粘土板はかつて主題ごとに分類されて保管されていたことが明らかになった。 エブラの文書庫では文書を木製棚に並べて保管していた。発見された文書の中には、書記の学習のためと思われるシュメール語の語彙を列記したリストの語彙文書がある。エブラ語の語彙と対応するシュメール語の語彙を併記した文書である。その他に、天地創造讃歌を記した文書も見つかっている。 天と地の主よ、大地はまだ存在しませんでした。主がそれをもたらされたのです。 日光はまだ存在しませんでした。 主がそれをお創りになったのです。 曙はまだ存在しませんでした。 主がそれを創造されたのです。
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遺跡の概要
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/09 22:13 UTC 版)
後期旧石器時代~縄文時代、近世の集落遺跡である。野川の河川改修により発掘調査が行われた。後期旧石器時代は前半期~終末期の計6枚の文化層が検出されている。縄文時代は中期~後期の集落跡である。近世は土壙墓1基が検出されている。 武蔵野台地の南端、国分寺崖線の南側、立川面に位置する。本来は野川の右岸に立地していたが、河川改修の結果、現在では遺跡範囲の北側部分を野川が横断する形となっている。立川ローム層Ⅹ層の下位まで確認され、以下シルト・砂層~礫層に移行し、立川1面に相当する。遺跡の標高は50~52mである。 近隣には、同じ野川右岸、立川面の遺跡として西側に貫井南遺跡、東側に七軒家遺跡があり、対岸の野川左岸にはやや東寄りに新橋遺跡、さらに東側に野川中洲北遺跡がある。国分寺崖線上の武蔵野面には中山谷遺跡、西側に西之台遺跡があり、野川流域遺跡群を構成する。
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遺跡の概要
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/09 22:13 UTC 版)
武蔵野台地の南端、国分寺崖線の斜面中位、標高65m前後に位置する。下水道工事に伴い偶然発見された。 国分寺崖線には、前原横穴墓より下流の三鷹市域に出山横穴墓群をはじめ多数の横穴墓があり、上流の国分寺市域には多喜窪横穴墓群、内藤新田横穴墓群があるが、中間では本横穴墓しか発見されていない。周囲はすでに宅地化されており、他に横穴墓があったかどうかは不明である。 前庭、羨道、玄室からなるが、前庭部は調査が不十分であり詳細不明である。羨道は長さ1.9m、幅は入り口側0.56m、玄門部0.94mで奥に行くほど広がり、天井はドーム状となる。羨門は川原石により閉塞されていた。 玄室は幅約2.5m、奥行き1.8mの横長の長方形で中央部がやや低くなっている。天井はドーム状で、最も高い位置での高さは約1m。玄室の西側壁に沿って、北に頭を向けた壮年期の女性の人骨が1体検出されたが、副葬品はない。 副葬品を欠くため年代は不明だが、形態は松崎元樹のA1型(正方形系)であり、8世紀前葉頃ではないかとされている。
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遺跡の概要
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/09 22:13 UTC 版)
後期旧石器時代~縄文時代の集落遺跡である。とくに後期旧石器時代は立川ローム層中に計13枚の文化層が検出された重層遺跡であり、武蔵野台地の編年の確立に寄与した。縄文時代については草創期の土器と、早期の炉穴が出土しているほか、前期~後期の各時期の土器、および中期勝坂式期の土偶脚部が出土している。 武蔵野台地の南端、国分寺崖線に面して立地し、湧水が形成したノッチ状地形を囲む∩字状の範囲に広がる。標高は65~68m。ノッチ部分には現在、小金井街道が南北に縦貫し、遺跡範囲はほぼ宅地および商業地となっている。道路を挟み西側にA地点、東側にB地点、C地点が位置する。 近隣には、国分寺崖線に沿って西側にはけうえ遺跡、平代坂遺跡・前原横穴墓、東側に中山谷遺跡があり、野川流域遺跡群を構成する。北側の台地平坦部には本町六丁目遺跡がある。
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遺跡の概要
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/16 22:35 UTC 版)
嵩山町字浅間下、標高140メートルの山腹に形成された石灰洞(鍾乳洞)に縄文時代草創期 - 早期の人々の生活痕跡が残る遺跡である。 1941年に愛知県史蹟名勝天然紀念物調査会主事の小栗鉄次郎によって初めて調査され、以後1947年までに4次にわたる調査が実施されている。洞窟の入口高さは1.3メートル、奥行は70メートルほどある。入口近くに炉の跡があり、土器、石器、骨角器などが出土している。 土器は縄文草創期の表裏押圧文土器片が出土しているほか、早期の押型文土器、前期・中期・晩期の縄文土器も出土している。出土品には土器片を円形に加工したものや、貝刃などもある。動物質のものではイノシシ、ニホンジカ、タヌキの骨、ハマグリ、ヤマトシジミなども出土しており、縄文人の食生活が垣間見える。
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遺跡の概要
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/09/25 15:45 UTC 版)
カトナの街を囲む城壁の遺構は現在でも残り、その高さは一部では20mになる。城壁の遺構は泥で作った日干しレンガと石灰岩の破片からなり、もとは石灰岩が壁面を覆っていたと推測される。城壁の前には濠が掘られている。青銅器時代の都市としては珍しいことに、城壁が囲む都市の形は四角形であり、各辺の真ん中あたりには門が設けられている。4つの城門は、白い石灰岩と黒い玄武岩を使ったオーソスタット(orthostats、壁の下部を覆う石の板)で覆われ、基礎は岩盤に達している。門の入り口の幅は4mである。 街の中心付近にある丘('colline centrale')はアクロポリスであったと推測される。宮殿は、アクロポリスの北にある「教会の小山」('Butte de l'eglise')と呼ばれる付近にあり、青銅器時代のシリアでも現在知られる中では最大級の建物であった。しかし宮殿の日干しレンガの壁の多くが1920年代の発掘の際に見逃されて掘り返されてしまい、石板で覆った壁や、硬い床面が境目を作る部分の壁だけが残っている。カトナの宮殿の間取りはマリの宮殿と非常に似ている。玄武岩でできた柱の基礎が多数見つかっており、この柱の使い方はアララハ遺跡第7層のヤリム・リム王(Yarim-Lim)の宮殿と比較できる。長さ20mはある玉座の間など、いくつかの部屋は寸法が非常に大きく、杉材でできた梁が屋根に使われていたとみられる。この宮殿は紀元前2千年紀前半に遡るとみられ、カトナの名前の分かっている最初の王イシ・アッドゥ王(後述)の住まいとも考えられている。中心の丘の北にある「小アクロポリス」には、2002年に二つ目の宮殿が見つかり、王族の住居と考えられている。 遺丘(テル)の上には1980年代からキリスト教徒の町が新しくでき始めている。このミスリフェ(Misrife)の町には、2000年現在で2,500人の住民がいる。
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遺跡の概要
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/25 10:24 UTC 版)
国分寺崖線の立川面の標高53m前後に位置する。かつて「首塚」「胴塚」の2つの塚があり、1352年(正平7年)の金井原合戦の戦死者を供養したものであり、塚の上には石塔と板碑があったと伝えられる。 近隣では、北側の平代坂遺跡の国分寺崖線斜面下部付近で14世紀後半頃とされる前原地下式坑が発見、調査されており、さらに西側の貫井遺跡でも国分寺崖線斜面下位で蔵骨器が発見されている(貫井南町4丁目蔵骨器)。同じ立川面の野川中洲北遺跡、武蔵野公園低湿地遺跡でも板碑片、石塔片が出土しており、関連する時期の遺跡が点在しているといえる。また後述のとおり、関連する時期の板碑も複数残されている。
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遺跡の概要
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/21 08:49 UTC 版)
後期旧石器時代~縄文時代の集落遺跡である。これまで4次にわたる発掘調査が行なわれている。後期旧石器時代は前半期~終末期にかけて11枚の文化層が検出された重層遺跡である。縄文時代は草創期~後期の遺構・遺物が検出されており、とくに住居跡が17軒検出された早期前半の集落跡が注目される。 武蔵野台地の南端、国分寺崖線に面して立地し、湧水が形成したノッチ状地形を囲む∩字状の範囲に広がる。ノッチ部分は現在、滄浪泉園となっており、湧水とはけの地形が豊かな緑の中、保存されている。これまでの発掘調査はおもに遺跡の西側に集中しており、東側についてはまだよく分かっていない。遺跡の主要部は、国分寺崖線斜面下位の標高60m付近から、台地上の72mまでの範囲に広がっている。 近隣には、国分寺崖線に面して西側に貫井遺跡、東側に平代坂遺跡・前原横穴墓、西之台遺跡、南側の斜面下位の立川面には西寄りに荒牧遺跡、南に貫井南遺跡があり、野川流域遺跡群を構成する。
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遺跡の概要
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/05/29 14:05 UTC 版)
岩手県の南西部に位置し、一辺20キロメートルで日本最大級の扇状地である胆沢扇状地の最奥頂部、標高280メートルの中位段丘上に立地する。 遺跡は縄文時代前期後葉の大木5式期に限られ、遺構が存在しない直径約20メートルの中央広場を取り囲むように、大型竪穴住居62棟がその長軸を中央広場の中心部へ向けて円環状に直径約110メートルの範囲で配置され、さらにその外側には小型竪穴住居や主に貯蔵穴と想定される土坑が巡っている。 縄文時代の環状集落の萌芽は縄文時代前期中葉の綾織新田遺跡(岩手県遠野市)や根古谷台遺跡(栃木県宇都宮市・黒浜式)に見られるが、それらはいまだ中央広場に大型竪穴住居の長軸を向けない構造になる。それに対し、時期的にも後出する大清水上遺跡は、中央広場に軸線を向けて環状を形成する集落で、縄文時代中期に普遍化する環状集落の初期形態として、その形成状況がわかる重要な遺跡である。
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遺跡の概要
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2014/03/03 18:32 UTC 版)
愛宕山は、仙台平野の西の丘陵から平野に突き出る低い山で、広瀬川沿いにある。東西に長い山の北斜面と南斜面東側に、多数の横穴墓があり、これを愛宕山横穴墓群という。大窪谷地をはさんで南側の大年寺山にも横穴があり、それは大年寺山横穴墓群という。大年寺山には他にも二ツ沢横穴墓群、茂ヶ崎横穴墓群があり、広瀬河畔の宗禅寺横穴墓群もあわせて向山横穴墓群と総称している。横穴が作られたのは7世紀後半から8世紀初めとみられる。その頃陸奥国の国府が置かれた郡山遺跡は約2キロメートル南東にあり、この国府や周辺の集落に住んだ人々が作ったのではないかと考えられている。 1938年(昭和13年)には、大年寺山の北側と愛宕山の南北にあわせて34個が見つかっており、加えて2、3年のうちに破壊されたものも10以上あったと伝えられる。付図で愛宕山の北に3、東に3、東南に20、他の種類の穴または破壊された穴が9みてとれる。この調査で報告された横穴の位置は今ではわからなくなっているが、宅地造成や道路開削によって破壊され、数や位置が不明のまま失われた横穴が多いことはわかる。 1973年(昭和48年)以降に調査がなされたのは南斜面の穴で、今までに28基が確認されている。別に、南東斜面そばに、赤い壁画がある横穴が1つだけ見つかっている。北側の発掘調査はなされていない。 穴は斜面の中腹に作られ、幅1メートル程の羨道から入り、やや狭く作られた玄門を通って玄室に至る。玄門がない横穴もある。羨道の長さは不明である。玄室は方形か台形で、隅が丸くなったものもあり、ほとんどの横穴は一辺が1から3メートルの範囲におさまる。一つだけ、床面の半分に石を敷いた穴が見つかっている。 概して遺存状態が悪いので、副葬品の全貌はわからないが、これまでに鉄の刀、鉄の鏃、須恵器、土師器、ガラス玉が見つかっている。
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遺跡の概要
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/12 16:08 UTC 版)
後期旧石器時代~縄文時代、近世の集落遺跡である。これまで14次にわたる発掘調査が行なわれている。後期旧石器時代は前半期と終末期の計4枚の文化層が検出されている。縄文時代は中期の竪穴住居跡がこれまでに50軒検出されており、市内では最大規模の集落跡である。近世は区画溝などが検出されている。 武蔵野台地の南端、国分寺崖線に面して立地し、湧水に面した範囲に広がる。遺跡の南側の崖線斜面にははけの森美術館があり、敷地内に湧水とはけの地形が豊かな緑の中、保存されている。遺跡の標高は62~67mである。 近隣には、国分寺崖線に面して西側に西之台遺跡、東側に栗山遺跡、南側斜面下位の立川面に新橋遺跡、東側に野川中洲北遺跡、西側の野川を挟んだ対岸に前原遺跡があり、野川流域遺跡群を構成する。
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遺跡の概要
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/12 15:36 UTC 版)
後期旧石器時代~縄文時代の集落遺跡である。これまで24次にわたる発掘調査が行なわれ、縄文時代中期前半~末葉の住居跡が55軒検出された大規模な集落跡である。 武蔵野台地の南端、国分寺崖線に面して立地し、湧水が形成したノッチ状地形を囲む∩字状の範囲に広がる。ノッチ部分には現在では貫井神社が立地、本殿の西側には現在でも湧水があり、境内には池が形成されている。遺跡の本体は神社東側の道路を上った、台地上の標高70~71mの範囲に立地する。 近隣には、国分寺崖線に面して西側に国分寺市東京経済大学構内遺跡、東側に小金井市はけうえ遺跡、南側の斜面下位の立川面には荒牧遺跡があり、野川流域遺跡群を構成する。
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遺跡の概要
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/12 15:56 UTC 版)
後期旧石器時代~縄文時代、平安時代~近世の集落遺跡である。野川第二調節池の建設に伴い発掘調査が行われた。後期旧石器時代は前半期~終末期の計8枚の文化層が検出されている。縄文時代は草創期、早期の遺物がまとまって出土しているほか、後期の竪穴住居跡、掘立柱建物跡が検出されている。平安時代は建物跡は明瞭ではないが土坑、ピットが検出され土師器、須恵器が出土している。中世は溝と掘立柱建物を構成すると考えられるピット群が検出されている。近世は遺構は明瞭ではないが陶磁器が出土している。野川低地と、隣接した低位段丘面の利用に関わる痕跡が後期旧石器時代から近世まで断続的に残されていることが特徴である。 武蔵野台地の南端、国分寺崖線の南側、立川面に位置する。河川改修により現在では国分寺崖線と野川流路の間の左岸の立川面は狭い平坦面となっているが、かつては野川の主流路は南側に蛇行しており、低地部には複数の支流路があった。国分寺崖線に接続する北側には本遺跡が立地し、その南、野川の主流路と支流路に挟まれて存在していた中洲上の低位段丘面に野川中洲遺跡が立地していたことになるが、河川改修と調節池の建設により旧地形を確認することは困難となっている。野川調節池の建設に伴う発掘調査では、台地部では立川ローム層Ⅹ層まで堆積が確認され、その下位に礫層が検出されているので立川1面に相当する。なお調査区内ではⅩ層下位、およびⅣ層下部より下位に泥炭層が形成されている部分があり、立川1面であるが各所に凹地、谷が形成されていたことが窺える。また低地部では調査範囲の南側には縄文時代草創期~早期に埋積した谷が確認されている。 近隣には、同じ野川左岸、立川面の遺跡として西側に新橋遺跡、東側に武蔵野公園低湿地遺跡があり、野川を挟んだ右岸に七軒家遺跡、その西側に前原遺跡がある。国分寺崖線上の武蔵野面には隣接して栗山遺跡があり、その西側には中山谷遺跡、東側にはICU Loc.15遺跡を含むICU構内遺跡群があり、全体として野川流域遺跡群を構成する。
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遺跡の概要
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/12 15:44 UTC 版)
後期旧石器時代~縄文時代の集落遺跡である。これまで7次にわたる発掘調査が行なわれている。後期旧石器時代は、縄文時代遺構覆土・包含層から石器を検出しているが、立川ローム層の発掘は行なわれていない。縄文時代は中期の竪穴住居跡24軒、土坑170基以上が検出されており、大規模な集落跡であったと考えられる。 武蔵野台地の南端、国分寺崖線の南側、立川面に立地し、野川が崖線から離れて南側に大きく蛇行する部分の右岸に位置する。野川との比高は約2mで、下弁天(元弁天)池と呼ばれる湧水池に隣接する。立川ローム層はⅪ層まで確認され、以下シルト・砂層~礫層に移行し、立川1面に相当する。標高は53~54mで、隣接する武蔵野面上の遺跡との比高は15~18mを測る。 近隣には、同じ野川右岸、立川面上の遺跡として西側に荒牧遺跡、東側に前原遺跡、北側の国分寺崖線上の武蔵野面にはけうえ遺跡があり、野川流域遺跡群を構成する。
※この「遺跡の概要」の解説は、「貫井南遺跡」の解説の一部です。
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遺跡の概要
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2016/09/19 02:56 UTC 版)
部分的に損壊した、屋根のある小路で、長さ6メートル・幅1,3メートルにおよぶ。19世紀に、小路を覆う石の大きさは長さ約4メートル・幅約2メートルと計測された。いまや二つの破片が残されている状態に過ぎない。また、小路は12の割石によって区切られている。割石は最低1.2メートルの高さのもので、そのうちの1つは傾いている。
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