野川中洲遺跡
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/12 15:56 UTC 版)
野川中洲北遺跡の南側に位置する。現在では河川改修後の野川を挟んで対岸にあたるが、かつては野川の主流路は本遺跡の南側を蛇行していた。1880年(明治13年)の迅速測図では、本遺跡と野川中洲北遺跡の間に小さな谷が表現されており、野川の主流路と支流路に挟まれた中洲上の微高地だったことが窺える。 1970年(昭和45年)頃、宍戸武昭により石器が採集、報告された。石槍には、両面に素材剥片の剥離面を比較的大きく残した、平台坂遺跡Ⅲ層出土例と共通する特徴的なものを含み、終末期のものと考えられる。また1980年(昭和55年)頃には中山真治により、ローム層が露出した工事現場からまとまった石器が採集された。二側縁加工のナイフ形石器、石刃などであり、後半期のものと考えられる。
※この「野川中洲遺跡」の解説は、「野川中洲北遺跡」の解説の一部です。
「野川中洲遺跡」を含む「野川中洲北遺跡」の記事については、「野川中洲北遺跡」の概要を参照ください。
- 野川中洲遺跡のページへのリンク