元樹とは? わかりやすく解説

元樹

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/06/13 00:55 UTC 版)

元 樹(げん じゅ、485年 - 532年)は、北魏皇族献文帝の孫。南朝梁に亡命した。は秀和、または君立。

経歴

咸陽王元禧の子として生まれた。美貌と将才で知られた。宗正卿となった。父の死後、兄の元翼や元昌らとともに梁に亡命した。武帝に気に入られ、魏郡王に封ぜられた。後に鄴王に改封された。揚州が梁に降ったとき、梁の将軍の湛僧珍が揚州の兵の変心を憂慮して、全て殺そうとした。元樹のはからいで、揚州の兵は北魏に帰ることができた。普通6年(525年)、元樹は南朝梁の使持節・都督郢司霍三州諸軍事・雲麾将軍・郢州刺史となった。南方の辺境の乱の討伐に活躍し、安西将軍となった。

大通2年(528年)、爾朱栄河陰の変で北魏の官僚たちを殺害したことを聞くと、元樹は爾朱栄を討伐するよう武帝に請願した。武帝は元樹に兵馬を率いさせて北魏に侵攻させた。中大通2年(530年)、元樹は侍中・鎮右将軍となった。中大通4年(532年)、鎮北将軍・都督北討諸軍事となり、北魏の譙城を落とした。北魏の樊子鵠・杜徳らが攻撃してきたため、元樹は城を堅く守って撃退した。樊子鵠が金紫光禄大夫の張安期を派遣して交渉し、元樹が譙城を放棄して南に帰ることで話がまとまった。元樹は誓約を信じて、戦いの備えをしていなかった。そこに杜徳の襲撃を受け、捕らえられて洛陽に送られた。永寧仏寺(『北史』では景明寺)に拘禁され、まもなく死を賜った。

子の元貞が東魏孝静帝を頼って、におもむき、元樹の埋葬を求めて許された。元樹に侍中・都督青徐兗揚豫五州諸軍事・太師司徒公・尚書令・揚州刺史の位が追贈された。元貞は父を埋葬すると、江南に帰り太子舎人となった。侯景の乱のとき、元貞は咸陽王となった。

伝記資料

  • 魏書』巻21上 列伝第9上
  • 『北史』巻19 列伝第7
  • 梁書』巻39 列伝第33

元樹(PC版は変更可能/PS2版は固定)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/02/18 07:33 UTC 版)

巫女舞 〜ただ一つの願い〜」の記事における「元樹(PC版変更可能/PS2版は固定)」の解説

このゲーム主人公10年ぶりに故郷・宮合訪れる。彼の容姿については、CGイラストで見ることが出来る。

※この「元樹(PC版は変更可能/PS2版は固定)」の解説は、「巫女舞 〜ただ一つの願い〜」の解説の一部です。
「元樹(PC版は変更可能/PS2版は固定)」を含む「巫女舞 〜ただ一つの願い〜」の記事については、「巫女舞 〜ただ一つの願い〜」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「元樹」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「元樹」の関連用語

元樹のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



元樹のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの元樹 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの巫女舞 〜ただ一つの願い〜 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS