三十三間堂官衙遺跡とは? わかりやすく解説

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三十三間堂官衙遺跡

名称: 三十三間堂官衙遺跡
ふりがな さんじゅうさんげんどうかんがいせき
種別 史跡
種別2:
都道府県 宮城県
市区町村 亘理郡亘理町
管理団体
指定年月日 1992.01.21(平成4.01.21)
指定基準 史2
特別指定年月日
追加指定年月日
解説文: 三十三間堂官衙遺跡は、阿武隈川下流南岸丘陵上に位置する平安時代亘理郡家跡推定される遺跡である。昭和61年度から63年度にかけての亘理町教育委員会及び宮城県教育委員会の4次にわたる発掘調査によって、遺跡の性格範囲、主要遺構その変遷明らかになった。
 亘理郡の名は、『続日本紀』養老2年5月2日条の岩城石背両国建置記事中に岩城国所属した6郡の1つとして「曰理」と見えるのが初見で、その後『続日本紀』・『日本後紀』・『日本三代実録』等の正史散見される『和名抄』には坂本・曰理等4郷が、『延喜式』には亘理郡官社4座が記されているが、後者のうち安福河伯鹿島緒名太・鹿島天足和気の3社はいずれも本遺跡の位置する丘陵縁辺所在している。また、奥州藤原氏の祖、藤原経清は「わたりの大夫」「亘権守」等と呼ばれており、亘理郡所領有していたことが推測される遺跡丘陵入り込む沢筋によって、北部官衙地域南部正倉地域とに大きく二分される。
 官衙地域は、北と東を溝によって囲まれ東西約180メートル南北200メートル規模をもつ。その中央部西寄りにはさらに東西50メートル南北60メートル区画設けているが、この内部の区画東・北・西の各面からは塀跡が検出されており、南側は未調査であるが土塁状の高まりとなっている。この区画内には基壇有する建物中心にコの字形に掘立柱建物配置されており、国衙城柵政庁遺構配置共通するころから郡庁院に相当する区画推測される。この郡庁地区東・北との溝との間にある平坦面からは、北側で6棟、東側2棟掘立柱建物及び礎石建物検出されているが、これらは郡家付属する官衙施設考えられる。これら官衙地域建物群はおおむね4時期の変遷認められ、その存続時期出土遺物から、およそ9世紀から10世紀前半考えられる
 正倉地域には、10棟の礎石倉庫跡と、これに付属する2棟1組掘立柱建物跡検出されている。倉庫跡のうち2棟礎石を完全に残しきわめて保存状況がよい。また付属建物には、官衙地域同様4時期の変遷認められる。これら正倉地区一辺150メートル方形の溝で区画されているが、この溝の東方の沢筋に面した箇所整地層が検出されており、東に通路設けていたもの考えられる
 本遺跡は、郡家基本的構成要素である郡庁院・付属官衙地域正倉地区のほぼ全容解明され、しかも遺構保存状況良好である点で貴重である。また、多く郡家9世紀以降急速に衰退していくのに対し、本遺跡10世紀前半まで明確な形態維持して存続していることは、古代東北地方における統治機構推移考え上で重要である。以上の理由によって史跡として指定し、その保存を図るものである
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三十三間堂官衙遺跡

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/03/26 03:51 UTC 版)

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三十三間堂官衙遺跡(さんじゅうさんげんどうかんがいせき)は、宮城県亘理郡亘理町にある平安時代郡衙を中心とする遺跡1992年(平成4年)に国の史跡に指定された[1]

概要

亘理町は宮城県の南部、阿武隈川太平洋に注ぐ河口に位置し後背は阿武隈高地の北端で、市街地の大部分は、沖積平野上にある。同町下郡椿山(しもごおりつばきやま)地区の亘理地塁の丘陵に古くから礎石の建物跡存在が知られていた(安永8年『風土記御用書出』に初見)。当地の伝説では、左甚五郎がこの地に来て一夜にして建てる、と工事にとりかかったが天邪鬼が、一番鳥の鳴く前に鶏鳴をまねて鳴いたので礎石を置いただけで工事は止めたという。礎石群は10箇所以上に渉り、郡(こおり)という地名と規模の大きさから郡衙跡と推定され、奥州藤原氏の始祖・藤原経清居城地としての関連が有力視され指定となった。

遺跡の研究・調査は戦前には始まっており、戦後は伊藤玄三ら(1967年)、宮城県教育委員会(1986〜1988年)、亘理町(2002年以降)により行われてきた。以前は寺院跡と考えられていたが、一連の調査から9世紀前半から10世紀前半にかけて存在した陸奥国亘理郡衙の施設であることが明らかになった。

遺構

遺跡は亘理町北部、JR常磐線逢隈駅西側の小高い丘の上にあり、北側の郡庁院跡、南側の倉庫群跡に分けられる。

郡庁院跡は東西50メートル、南北65メートルの塀跡に囲まれた区域になっている。塀の東側と南側には門の跡がある。南側の門跡からは9世紀の土器が出土した。

郡庁院跡内北側の区域には南北7メートル、東西18メートルの正殿跡があり、これは2度建て替えられている。その南には東西6メートル、南北26メートルの長い二つの建物が東西に対称的な位置に並んでいる。二つの長い建物はどちらも1度建て替えられている。正殿と二つの長い建物は合わせてコの字型に並んでおり、当時の郡衙に見られる形式である。区域内にはその他5つほどの建物跡が認められる。

遺跡南側の倉庫群跡は一辺150メートルほどの堀で四方を囲まれている。区域内の西側と南側に10棟の高床式倉庫跡がL字型に並んでいる。郡衙の主たる業務が徴税であり、倉庫には米が貯えられていたと考えられる。

脚注

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  1. ^ 三十三間堂官衙遺跡 - 国指定文化財等データベース(文化庁

参考文献

関連項目

座標: 北緯38度4分3.5秒 東経140度51分6.8秒 / 北緯38.067639度 東経140.851889度 / 38.067639; 140.851889



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