当時の社会状況
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/31 02:45 UTC 版)
「奈良の鹿」も参照 当時の奈良地方一帯は興福寺が大和守護として実質的な支配権を保ち続けており、奉行所は宗教警察権に対して不可侵の姿勢をとっていた為、鹿殺しを行った者は全て寺側に引き渡していた。興福寺側は罪人の年齢を問わずに引き回しの上、斬首するという私刑を公然と行っていた。 『興福寺略年代記』によれば1551年10月2日に10歳位の童女が鹿に石を投げて当たり所が悪く、打ち殺した為、引き回しの上斬首された事実が記載されており、「三作石子詰め」等の民話のように陰惨な話が今日まで伝わっている。 1670年に溝口信勝が奈良奉行に就任して以後は興福寺側の宗教的特権を認めなくなり、1678年に長四郎という鹿殺しの犯人に対する興福寺の処刑請願を奉行所が拒否して興福寺の支配は終わりを告げ、以後は鹿殺しについても幕府側が裁くようになる。根岸鎮衛が生まれた1737年以降もこの状況に変わりはなく、1822年に食肉売買目的の常習犯が3名捕われたが長期の入牢だけで処刑はされていない。 このため、根岸がいた時代に過失犯でも奉行所が処刑したという設定は、本作における創作である。
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