略年
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1192年 明宗の太子だった康宗の長男として誕生。 1196年 崔忠献、李義旼一派を取り除いて独裁権力を掌握する。崔氏政権の成立。 1197年 祖父の明宗が崔忠献により廃位。一族は島流しに処せられる。 1212年1月 父の康宗が即位する。 7月 開京に戻り太子となる。 1213年 8月 父の康宗の死去に伴って王位につく。 1219年 9月 崔忠献、死去。崔瑀が大権を承継して崔氏政権が延長される。 1225年 1月 高麗に送ったモンゴルの使節が殺害される(鴨緑江事件)(『高麗史』巻22)。 1231年8月29日 モンゴルの第1次侵攻。 11月29日 モンゴル軍、開京に至る。王は降伏。地方では抵抗が続く(『高麗史』巻22)。 12月1日 モンゴルと講和。南宋、金を夾攻することを約定する。 モンゴル、高麗に72人の知事(達魯花赤)を配置。 1232年7月7日 崔瑀、都を開京から江華島(江都)に移す。モンゴルに対する敵意を明らかにする。 達魯花赤が殺害される。 8月 モンゴルの第2次侵攻。 1233年4月 モンゴルが詔書を送って高麗の罪状を問責する。 5月 西京の洪福源などが反乱を起こす。 12月 西京の反乱が鎮圧される。洪福源はモンゴルに逃げる。 1235年 モンゴルの第3次侵攻。 1239年 モンゴル軍、王族の入朝を条件に高麗の講和要請を受けて撤退。その後も高麗が約束を守らなかったため、侵攻が再開される。 1247年 モンゴルの第4次侵攻。 1249年 11月 崔瑀、死去。崔沆が政権を承継する。 1253年 モンゴルの第5次侵攻。 1254年 7月 モンゴルの第6次侵攻。年末まで206,800余人の捕虜が連行されたことで、高麗は侵攻以来、最も大きな被害を受けた。(高麗史 巻24) 1255年 モンゴルの第7次侵攻。 1257年4月 崔沆、死去。崔竩が政権を承継する。 5月 モンゴルの第8次侵攻。 1258年3月 柳璥・金俊などが崔竩を暗殺することにより、62年続いた崔氏政権が打倒される(戊午政変)。 12月 和州以北をモンゴルに割譲する(双城総管府)。 1259年3月 高麗、モンゴルに服属する。世子(元宗)を人質として差し出す。 7月 高宗、江都にて死去。
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