選手協会の設立
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/03 23:28 UTC 版)
「1954年のメジャーリーグベースボール」の記事における「選手協会の設立」の解説
1946年にアメリカ野球組合が野球機構の中で正式に認められた団体になったが、1953年にナショナルリーグはラルフ・カイナー、アメリカンリーグはアーリー・レイノルズが選手代表になってから活動が活発になり、1953年7月にカイナーとレイノルズは年金の増額、年俸の最低額を5,000ドルから8,000ドルに引き上げること、薄暮から夜間へのダブルヘッダーを廃止すること、ウインターリーグに関する規定の変更などを実行委員会に要望したが、年俸の最低額を6,000ドルに引き上げること、中南米のウィンターリーグへの出場が認められる選手は各球団3名とし大リーグに45日以上の登録が無いと参加資格がないことで決着した以外は拒否された。このためカイナーとレイノルズは弁護士を顧問にして前年12月にコミッショナーと選手代表16名との会議に出席させようとしたが、フリックに弁護士の立ち合いを拒否されたため、この会議を選手側がボイコットする事態となった。 そして翌1954年に入って顧問となったニューヨークの弁護士ノーマン・ルイスの指導を受けて「野球組合」を解体して新しく「選手協会」を設立した。当時「選手協会」は労働組合ではないという文言を入れてマッカーシズムが吹き荒れる当時の社会状況に配慮しつつ、この組織は動き始めた。シーズン前の2月に開かれたオーナー会議で選手側から要求があった年金の増額に関してオールスターゲームの入場料の60%、オールスターとワールドシリーズのラジオ・テレビの放送権料の全額を年金基金に組み込むことが認められた。その後は年俸の最低額を6,000ドルから7,200ドルに引き上げることを「選手協会」が要求しオーナー側が拒否するなど、選手側の要求実現が難しい時代が続いた。「選手協会」が強力な組織になるのは20年後の1970年代に入ってからである。
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