アメリカ野球組合
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「1946年のメジャーリーグベースボール」の記事における「アメリカ野球組合」の解説
この年にもう一つメジャーリーグは挑戦を受けた。ボストンに居住するロバート・マーフィーが野球組合を設立して、裁判所に組合を選手契約の代行機関として認可するよう申請した。マーフィーはまた60年前にプレーヤーズリーグを結成したジョン・モンゴメリー・ウォード(モンテ・ウォード)らの選手組合と同じく選手の保留条項を激しく糾弾した。この時までにピッツバーグ・パイレーツの選手たちと連携してストライキも辞さない構えを見せていた。この年6月7日の対ジャイアンツ戦を前にパイレーツの選手たちはストライキ決行の投票を行ったが経営者側の切り崩しで試合開始数分前に否決された。そこで全国労働争議調停局に出向いて選手契約の代行機関としての認可を求めたが却下された。この動きに対して両リーグ会長と16球団オーナーはオールスターゲームが開催されている最中の7月9日に、ボストンで会合を開き、選手契約に関する問題を出来るだけ早く経営者側が主導権を握って円満に解決を図ることを決めた。そしてヤンキースのマクフェイル、レッドソックスのヨーキー、カブスのリグレー、カージナルスのブリードンから成る合同委員会が構成され、その後シカゴで開かれたこの委員会の会合で、統一契約の改正については選手側の代表も参加することを認め、コミッショナーは直ちに16球団に書簡を送り各球団2名の選手を選んで、7月29日に、アメリカンリーグがシカゴで、ナショナルリーグはニューヨークで別々にリーグ会議を開いた。そこでリーグの選手代表を2名選出した。 そして8月5日に、両リーグ4名の選手代表がニューヨークで開催されたメジャーリーグ政策委員会に出席した。この政策委員会のメンバーは、コミッショナーのハッピー・チャンドラー、ナショナルリーグ会長のウイル・ハリッジ、アメリカンリーグ会長のフォード・フリック、合同委員会の4名の各球団オーナーそして選手代表4名で、協議を重ねた結果、政策委員会は選手と経営者との間に原則の一致を見たと発表した。この動きを見ながら、マーフィーは全国労働争議調停局からペンシルベニア州労働争議調停局に働きかけ、8月9日にフィラデルフィア労働争議調停局がマーフィーが求める野球組合に選手の契約を代行させる件について、最終的な決定はパイレーツの選手自身にあるとして投票で可否を決めるように勧告が出された。こうしてパイレーツの選手による投票が実施され、ちょうど直前に政策委員会での原則の一致の発表に影響されてマーフィーの契約代行の案は15対3(その他は棄権)で否決された。 8月29日に、両リーグの合同会議が開かれて、16球団のオーナーたちは選手の代表権と契約に関する要望を受け入れることを決議し、ここに新しく実行委員会を組織して、コミッショナー、ナショナルリーグ会長、アメリカンリーグ会長、アメリカンリーグのオーナー代表(ヤンキースのマクフェイル)、ナショナルリーグのオーナー代表(レッズのジャイル)、マイナーリーグ代表、そして両リーグから選手代表1名ずつの構成とすることが決まった。そして新しい実行委員会はすぐに開かれて選手契約に関する新しい内容を決めた。 選手の最低年俸は5000ドル(4月から9月まで)。春季キャンプの期間は週25ドル。 50歳に達した元選手の年金は月額で50及び100ドル。 シーズン終了後の帰郷に係る旅費、及び他球団へ移籍する場合の移動に係る旅費は球団が負担。 他球団及びマイナーリーグに移籍された選手の、その1年間の給料はシーズン当初の契約に基づいて支払われること。 春季トレーニングの開始は3月1日。(次の1947年は2月15日から) この内容は9月16日の両リーグ合同オーナー会議で正式決定した。ここに野球機構が出来てから初めて選手を組織の中枢に加えることになった。しかし選手側と球団側の対立は、その後も続いていった。
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