浦尻貝塚
名称: | 浦尻貝塚 |
ふりがな: | うらじりかいづか |
種別: | 史跡 |
種別2: | |
都道府県: | 福島県 |
市区町村: | 南相馬市 |
管理団体: | |
指定年月日: | 2006.01.26(平成18.01.26) |
指定基準: | 史1 |
特別指定年月日: | |
追加指定年月日: | |
解説文: | 本遺跡は福島県浜通り中北部に位置する、縄文時代前から晩期にかけての貝塚である。南北に延びる舌状の段丘上には、竪穴住居、柱穴群、貯蔵穴、土坑墓が密集し、竪穴住居が分布する中央部は直径約60mにわたって掘削され、平坦部を作出していたことが明らかとなっている。全部で4箇所の貝層が確認され、段丘南側の東西斜面には3箇所の貝層が分布し、いずれも東西15から20m、南北30から40m、最大厚1.8mと大規模である。また、段丘南側では晩期前半の貝層を確認している。貝層はいずれもアサリを主体とし、魚類ではスズキなどの内湾性種が多く、ウナギのほかにハゼ、イワシなどの小魚も多い特徴がある。動物ではシカ、イノシシの他にカモ等鳥類が多い。さらに晩期ではヤマトシジミやフナ等の増加から汽水から淡水域の利用拡大、大型サメ類やマダイの増加、骨角製漁労具が多く出土するなど外洋域の利用なども顕著となることから漁労活動の変遷も明らかとなっている。このように浦尻貝塚は縄文時代前期後葉から晩期前半にかけて長期間形成され、遺構群の分布状況から周辺集落の中核的な集落として位置付けられる。また、貝塚と集落が伴って確認できることから、これらの変遷や形成過程にも関連性を認めることができ、各貝層の動物遺体群は当該地域の縄文時代の生業と環境の関わりを考える上でも重要である。 |
浦尻貝塚
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/06/25 13:43 UTC 版)
浦尻貝塚(うらじりかいづか)は、福島県南相馬市小高区(旧小高町)に所在する縄文時代の貝塚・集落、さらに古墳時代後期の古墳群・平安時代集落・中世豪族居館推定地を含む複合遺跡[1]。このうち縄文時代の遺構は前期から晩期(5700-3000年前)にかけての長期間にわたる集落跡であり、面積は7ヘクタールにのぼる。2006年(平成18年)12月6日に国の史跡に指定されている[2]。
概要
この貝塚の貝層は4ヵ所確認されているが、東西15-20メートル、南北30-40メートル、厚さは最大で1.8メートルを超えるかなり大きいものである。
舌状の段丘が南北に延びており、その上に竪穴建物や柱穴群、貯蔵穴や土坑墓がある。竪穴建物のある中央部が直径約60メートルにわたって掘削され、平らな場所を作出していたことが判明した。段丘の南側にある貝層は、縄文時代晩期前半のものである[2]。
貝層に確認された生物は、特にアサリが多いが、スズキ、ウナギ、ハゼ、イワシなどの魚類のほか、シカ、イノシシなどの動物、カモなどの鳥も含まれるという。縄文時代晩期では、ヤマトシジミやフナ等が増加していること、汽水から淡水域の利用が拡大していること、大型のサメ類やマダイなどの魚類の増加していること、骨角製漁労具が多く出土していることなど外洋域の利用なども顕著になっているため、当時漁業などが活発化したことがうかがえる[3]。
かなり長期間にわたって形成された集落・貝塚であるだけに、各年代別の貝塚があるため、縄文時代の食べ物の取り方や海の移り変わりなどを知ることができる。いわゆる『大規模貝塚がある中心的なムラ』と評されている[4]。
さらには貝塚と集落がともに存在するため、これらの変遷や形成過程とも関連していると推測できる。各貝層から出土している動物の遺体も、当時の生業と環境の関係を調査する参考になるであろうとされる[2]。
出典
- ^ 小高町教育委員会 2005, p. 4.
- ^ a b c “国指定文化財等データベース”. kunishitei.bunka.go.jp. 2020年11月20日閲覧。
- ^ “浦尻貝塚 文化遺産オンライン”. bunka.nii.ac.jp. 2020年11月20日閲覧。
- ^ 小高観光協会|福島県南相馬市. “小高観光協会|福島県南相馬市”. odaka-kanko.jp. 2020年11月20日閲覧。
参考文献
- 小高町教育委員会『浦尻貝塚1』〈小高町文化財調査報告6〉2005年3月30日。doi:10.24484/sitereports.40160。 NCID BA74228020 。
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