浦添城跡とは? わかりやすく解説

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浦添城跡

名称: 浦添城跡
ふりがな うらぞえじょうあと
種別 史跡
種別2:
都道府県 沖縄県
市区町村 浦添市仲間上原・字仲間山川原・字仲間城原・字仲間後原・字前田山川原・字当山世利原・字当山東り原
管理団体
指定年月日 1989.08.11(平成1.08.11)
指定基準 史2
特別指定年月日
追加指定年月日
解説文: 浦添城は、舜天王居城ともいい、また、英祖王統察度王統いずれも浦添の出といわれているところから英祖王統察度王統時代築かれたともいうが、確証はない。しかし、この三王統のうちいずれかの時代築かれたものであろう15世紀頃の首里遷都とともに城跡荒廃していくが、尚真王長子尚維衡が父の不興をかって浦添城一時されたり慶長14年(1609)、島津侵攻の際戦火にあったこと、万暦45年1617)、尚寧王がこの城を修築して隠居したこと等が記録によって知られる
 城は字仲間から牧港にのびる琉球石灰岩丘陵東端標高130~140メートル要害の地に築かれている。その規模は、東西380メートル南北6080メートルに及び、北は急崖をなしているが、南は緩やかな斜面となっている。城跡からは、北方宜野湾北谷から読谷までの街々、南方には慶良間島々首里那覇の街々を通して南部丘陵を望むことができる。
 城跡は、太平洋戦争中彼我争奪戦一部大きく損傷したほか、戦後採石工事等によって、北側一部削り取られたりする変容がみられたため、遺構遺存はないものと大部分の人は考えていた。しかし、昭和57・58両年度の浦添市教育委員会による発掘調査結果北側の崖面を除き遺構がよく残っていることが判明した。すなわち、城跡遺構は、13世紀末~14世紀初頭第1期始まり、4ないし5時期にわたるものが重複して残っていること、ごく一部発掘調査によっても城門石垣石塁建物跡井戸等が検出されること、城への虎口は南にあるらしいこと、城の規模は各期によって相当変化してたらしいこと等が明らかになった。なお、城跡北側には、浦添ようどれ、すなわち英祖王と尚寧王2つ陵墓が、戦後修復工事をへて残っている。
 こうした新し事実ふまえて沖縄で最も著名な城の1つである浦添城跡を史跡指定し今後積極的に発掘調査行って城のなりたち究明しつつ、保存整備図ろうとするものである
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