学説史
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豪農をめぐる議論は、豪農論と呼ばれる。日本近世史の最も基本的な学説の一つである。 第二次世界大戦前 日本資本主義論争の中の新地主論争 服部之総の地主=ブルジョア範疇 第二次世界大戦後 藤田五郎の豪農論 寄生地主制論争 佐々木潤之介の豪農論
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学説史
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第二次世界大戦終了まで日本政府側や台湾総督府の資料の重要部分が未公開だったために、戦前の研究は乏しい。しかし戦後、そのような資料や、中国や台湾側の要人の回想録や日記、国民党政府が管轄していた資料、当時台湾に在留していた外国人の記録などが公開され、また共同シンポジウムが開かれるなど研究が進んでいる。 日清戦争の一部と考えるか、別個の戦争と考えるかについては議論が分かれている。 古典的な研究としては台湾人による『台湾民主国の研究』、『日本統治下の台湾 : 抵抗と弾圧』が各国資料と戦史をつき合わせたものとして研究の基準となっている。なお両者とも台湾民主国の建国自体は、富裕層や官僚主導だが、日本軍の無差別殺戮などに対する反感が全台的な郷土防衛戦を引き起こし、民主国自体は清朝への復帰を狙ったものであるものの、1896年の前半までは抵抗の旗印として機能したという主張をしている。現在台湾独立派の研究者であっても、抗日運動とする周婉窈と、抗日戦争を採用する呉がおり用語の選択は分かれている。しかし台湾人研究者は、台湾民主国の抗日運動の狙いが近代西洋的な意味における独立でなく清への復帰を目指したものであったとしても、郷土防衛としての側面は高く評価する傾向にある。一方で中国人研究者は三国干渉の再現をねらった清側の防衛戦争として台湾防衛戦争という呼称を用いている。 日本の日清戦争研究において台湾は重視されてこなかったが、大江志乃夫の発表以降、日清戦争全体における台湾の問題を扱う文献が急速に増えた。大江は日本最初の植民地戦争であることを強調し、1915年までの台湾植民地戦争のうち、1895年3月までを台湾征服戦争とした。現在多くの研究者はこの呼称を用いている。また作戦面での分析を行った戒能も治安作戦が征服のための戦争に変貌して行ったことを指摘している。これらの研究は、日本からみた戦争という側面を色濃く残した日本史的な研究である。
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学説史
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11世紀初頭にアブー・ライハーン・ビールーニー(Abū Rayhān Bīrūnī)は、中東や地中海地域、そしてとりわけインド亜大陸における詳細な文化・宗教人類学的比較研究を行った。ビールーニーの研究は、彼が研究対象とする国々と深い関係を持つことによって達成されたものである。ビールーニーは、研究対象地域の人々や慣習、そしてインド亜大陸の諸宗教についての膨大な調査を行い、比較宗教学や宗教人類学の先駆者といわれている。アーサー・ジェフリー(Arthur Jeffery)は「これほど客観的かつ差別的な先入観のない他宗教についての言説、最適な調査対象を選んだ上での真剣な研究に対する取り組み、そして厳格かつ公平な研究を積み重ねるという方法は、近代以前では稀なことである」と述べている。 ビールーニーは、彼の言説に対する信仰者からの批判は覚悟していたし、学者は厳密な科学的方法に基づくべきだという考えを持っていた。ウィリアム・モンゴメリー・ワット(William Montgomery Watt)によれば、ビールーニーは「事実を書き記すことにおいて尊敬すべきほど客観的で偏見がない」が「彼は自分の見解を明確に表してはいないようにみえるものの、人々の宗教経験にある一定の統一性があることを証明するために事実を選び出している」としている。ビールーニーの異文化比較研究は、イスラム世界から14世紀のイブン=ハルドゥーン(Ibn Khaldun)の研究に引き継がれた。 1841年にルートヴィヒ・フォイエルバッハ(Ludwig Feuerbach)によって全ての宗教はそれを崇拝する人間のコミュニティーにより創造されるという人類学の理論を初めて提示された。1912年、エミール・デュルケーム(Émile Durkheim)は、フォイエルバッハの理論の上に、宗教は「社会における社会的価値の投影」「社会についての象徴的な言説を作る手段」「社会秩序についての言説を作る象徴的言語」であると考えた。つまり、「宗教は社会自体を崇拝するものである」ということである。 19世紀に入ると、文化人類学の関心は文化的進化に集中する。多くの人類学者が「原始的」と「近代的」な宗教の間に単純な区分けがあると仮定し、どのようにして前者が後者に発展したのかという説明をしようとした。20世紀、多くの人類学者は、このアプローチを否定している。今日の宗教人類学はマックス・ウェーバー(Max Weber)、エミール・デュルケーム、ジークムント・フロイト(Sigmund Freud)、そしてカール・マルクス(Karl Marx)などの理論に影響を受けたりそれに基いた研究がなされている。これらの研究は、宗教信仰と行為がいかに政治的あるいは経済的な力を反映しているのか、あるい宗教信仰や行為の社会的機能について特に注目している。
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学説史
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一般に文化人類学の学説史においては、ブロニスワフ・マリノフスキの『西太平洋の遠洋航海者』、アルフレッド・ラドクリフ=ブラウンの『アンダマン島民』の両書が出版された1922年を境にして近代的人類学が始まったとされる。なお、これ以前の人類学者としては歴史主義(すべての社会は未開状態から段階を経て進歩していくとする考えで、西欧近代をその頂点とした)や伝播主義(類似する社会習慣がある場合、一方から他方にそれが伝播したとする考え)を特徴とするルイス・ヘンリー・モーガンやジェームズ・フレイザー、ロバート・ローウィらがあげられる。 この時期、マリノフスキが確立したフィールドワークの手法によってデータの体系的収集が可能になり、さらにラドクリフ=ブラウンによってフランスの社会学者デュルケームの社会理論に基づいた構造機能主義理論が確立され、社会科学としてのその基礎が築かれた。 マリノフスキとラドクリフ=ブラウンはともにイギリスを中心に活動したため(もっとも両者はともにアメリカで教鞭をとっている)、第二次世界大戦後は彼らの後を受けたイギリス社会人類学の伝統が人類学の本流として認識されるようになった。しかし、各国の人類学にはこれとは異なる伝統が存在しており、その中でもアメリカとフランスの伝統はしばしば強い影響力を持った。 特にアメリカにおいては、フランツ・ボアズを中心とした独特の学派が受け継がれてきた。この学派では社会関係と社会構造に注目する社会人類学よりもより包含的なアプローチを取り、人間の慣習や社会制度、心理的傾向性、言語、物質文化と言った多様な要素からなる広義の文化に焦点を当てた。 この学派は、この幅広い文化の概念を用いて各民族(具体的には北米原住民)の固有文化を記述することに専念し、社会人類学のような理論化に対しては批判的であった。この学派の姿勢は乏しい資料を基に自民族中心主義的な理論化を行った進化主義への反発から来ていると言われ、ボアズらはこのような進化主義的立場に抗してそれぞれの文化はそれぞれの価値において記述・評価されるべしであると言う文化相対主義を主張した。このように理論を排除する立場をとったため、アメリカ文化人類学派はイギリス社会人類学に対して理論的な発展では後れを取ったが、現在では文化相対主義の立場は、世界の文化人類学者にとって広く自明のものとして認知されている。また、一方で社会関係にこだわらない包括的な立場を取り、言語や心理過程、地理的範疇や生態系にも焦点を当てたために、後に心理人類学(文化とパーソナリティ論)、生態人類学(新進化主義)、といった数多くの下位分野を生み出すことになった。 日本に於いては、岡茂雄が戦前に、民族学・民俗学及び考古学専門の書店「岡書院」を開き、多くの本を出版した。また、歴史学者、考古学者の西村眞次が1938年に早稲田大学文学部内に文化人類学会を設置して初代会長に就任、人類学の教科書を3冊上梓するなど、文化人類学の認知に貢献した。 戦後は、イギリスに留学して社会人類学を修めた中根千枝を招いた東京大学においてイギリス流の社会人類学が受容された。一方、関西では生態学者今西錦司の弟子である梅棹忠夫を中心とした京都大学人文科学研究所がアジア・アフリカ各地に探検隊を派遣して多くの研究を行った。その成果は日本万国博覧会(大阪万博)におけるメイン館の展示となり、その後同跡地には国立民族学博物館が設立されて日本における文化人類学の研究拠点となった。生態学者今西錦司の影響下に発展した京都の人類学は霊長類学との協力が盛んで自然科学出身の人材も多く、環境利用や生業、技術、進化など人類社会の生態学的側面に焦点を当てた研究も進められた。また、梅棹忠夫が1950年代に著した『文明の生態史観』は、当時の日本の論壇とくに唯物史観が支配的だった当時の社会科学全般に衝撃を与えた。 文化人類学は様々な国でその国独自の事情を反映して多様に発展してきたが、近年は交流の活発化に伴ってかつてのような国ごとの個性はそれぞれのフィールドごとに再編されつつあり、国による違いは徐々になくなりつつある。 また1970年代以降、文化人類学がおもな対象としてきた発展途上国社会で急激に開発が進み(ポストコロニアル)、新たな社会問題が発生するようになるに伴って学問の性格も徐々に変化してきた。特に1980年代以降は、開発、医療、エイズ、環境問題、教育、観光などの社会問題を扱う応用人類学の分野が急成長し、急激に多様化が進みつつある。さらに、ポストモダンの相対主義的潮流のなかでポストコロニアル理論を打ち立てたエドワード・サイードの『オリエンタリズム』や人類学者ジェイムズ・クリフォードの『文化を書く』などの批判に関連して、文化人類学者が異文化を「書く」とはどういうことなのか、という学問の根幹に関わる問題も提起された。同様に人類学的行為の政治性や方法論・理念(文化相対主義、社会構築主義など)についての議論も盛んに行なわれている。さらに構造主義を普及させたクロード・レヴィ=ストロースは、従来の欧米の人文科学における人間の文化・生活に対する捉え方に疑問を投げかけ、哲学部門を中心とした人文科学全体の学問の在り方に関する議論が活発になっている。
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学説史
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1901年(明治34年)に河野広道により発見され、「チャシ」として報告された。 1919年(大正8年)鳥居龍蔵はツングース族の植民地の砦跡と考えた。 1937年(昭和12年)原田二郎は、土層断面などの観察からチャシ説に疑問を唱えた。 1948・49年(昭和23・24年)河野広道は斜里町朱円遺跡で土堤を確認し環状土籬(籬は垣根の意)と呼称する。 1964年(昭和39年)大場利夫・石川徹は千歳市のキウス1・2号を発掘。 1977年(昭和52年)木村英明は恵庭市柏木B遺跡や千歳新空港建設予定地内の発掘で共同墓地としての性格を明らかにした。それ以来、周堤墓や竪穴墓の呼称が用いられている。
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学説史
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A.W.F. エドワーズの学説史研究によれば、このアイディアはフィッシャーがオリジナルではない。最も古い記述はチャールズ・ダーウィンの『人間の由来(1871)』の第一版に見られる。ダーウィンは性比が自然選択によって均衡すると見抜いていたが、洗練された理論ではなく、第二版では削除された。フィッシャーは著書にダーウィンの議論を引用している。その後、イエナ大学のカール・デュージングは1883年から1884年にかけて3つの論文でこれに言及しているが、後のショーとモーラの研究と本質的に同じものであった。
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学説史
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江戸時代に不改常典(かはるまじきつねののり)に関する学説を示した本居宣長は、『続記歴朝詔詞解』と『続紀宣命問目』で、大化の改新の諸法を指すと解した。『日本書紀』の天智天皇の時代には、改定はあっても初めて定められた法は見当たらないというのがその理由である。大きな制度変革は孝徳天皇の代の大化の改新であり、それが実質的に天智天皇によって推進されたために、即位詔では天智が定めたと言われたと考えた。 後に、天智天皇元年に日本最初の律令として近江令が制定されたと認められると、不改常典とは近江令のことだと考えられるようになった。具体的には、大正時代に三浦周行が『続法制史の研究』で、即位の宣命に現れるのは近江令のことであるとした。三浦はまた、大化の改新から天智天皇の代までの法制のこととも述べて、宣長の説をも包含した。昭和の初めに滝川政次郎もこれを踏襲して近江令のこととみなした。当時の学界では、近江令こそ日本最初の令で最大の画期であり、大宝令と養老令は近江令を修正したものに過ぎないと考えられていた。そこで、天智が定め、歴代天皇が踏襲した重要法典ならば近江令に違いないと考えられたもので、精密な議論は存在しなかった。 戦後の1951年に、岩橋小弥太が論文「天智天皇の立て給ひし常の典」を発表した。これが本格的な不改常典研究の初めである。岩橋は聖武天皇の詔を検討してこれが皇位継承の根拠として用いられていることを示し、皇位継承法説を立てた。その上で近江令が皇位継承規定を含まなかったと推測し、近江令説を否定した。高橋崇が「不改常典と定めた食国法」という詔文から反対を唱えたものの、多くの学者は岩橋説に賛同した。近江令説退場の背景には、ほぼ同時期に唱えられた近江令非存在説がある。近江令が平安時代に創作された仮構ならば、奈良時代に言及された不改常典が近江令であるはずがない。存在説をとる場合でも、近江令は律令制整備の長い道程の中の一段階とみなされるようになり、重要度が減じた。なお、岩橋の論には「不磨の法典」という大日本帝国憲法を思わせる表現による評価がなされたことからその後の研究者に不改常典に実体性や永続性を持つものとする認識を与えたとする指摘もある。 それから1960年代末までは、皇位継承法説を修正・補強する研究が続いた。1955年には直木孝次郎が論文「天智天皇と皇位継承法」で元明天皇による仮託説を提唱した。直木は後に仮託説を捨てたが、仮託というアイデアは、直系・嫡系皇位継承法説からも、これを否定する立場からも引き続き参考にされた。1959年には北山茂夫が、大友皇子と重臣たちが奉じた「天皇の詔」が不改常典であろうとする説を出した。 井上光貞は1965年発表の論文「古代の皇太子」で、岩橋が唱えた直系相続ではなく、嫡系相続が定められたのではないかとする説を出した。 皇位継承法説定説化の状況を覆したのは田村円澄で、彼は1969年に論文「不改常典考」で皇位継承法説を全面的に批判し、藤原氏の輔政を定めた口承の法が不改常典であると説いた。この説は1970年代にかなりの支持を得たが、皇室側の動機や藤原氏の台頭時期に疑問が投げられ、勢いを失った。以後次々に不改常典をめぐる新説が提唱され、論議は非常な活況を呈したが、どれもはっきりした成功をおさめなかった。 新説提唱が一段落してから、1980年代以降は直系・嫡系の皇位継承法説が最有力と目される状態に揺り戻したが、それで確定とはみなされていない。
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学説史
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/07/19 01:00 UTC 版)
フランスの社会学者エミール・デュルケームは、「犯罪は時々の社会にとって不可欠の機能を果たしている」として犯罪の正常性を主張することで、一般的な常識ないし偏見をくつがえす科学的な社会病理学の先鞭をつけた。 1938年には、アメリカの社会学者ロバート・キング・マートンが、それまでのプラグマティックなアメリカ社会病理学に対して、逸脱行動(deviant behavior)なる用語を定着させる画期的な論文「社会構造とアノミー」を発表し、その後のシカゴ学派などによる逸脱行動研究の流れを用意した。
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学説史
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/19 14:31 UTC 版)
もともとは、種としてのホモ=サピエンスのすぐ下位、あるいは、それに次ぐ分類群として提唱されてきたものであり、遺伝的に多少とも隔離された集団で、他のどのような隔離集団とも異なった集団遺伝子組成を有するものとされていた。近代においては、特に奴隷貿易でアフリカ人らを人身売買する過程で、分類および認識が求められた。17世紀には、フランソワ・ベルニエ(フランス語版)が『人種による新大地分割論』(1684)を出版し、人間を人種によって分類することを論じた。このように、国民を含む共通の祖先を持つと想定される一群の人々という意味での人種(race)の概念は、18世紀半ばになるまでに、すでに知られていた。しかし、人種に関する偏見や先入観は、1750年から1950年の間に最高潮に達した。
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