カール・マルクス
(Karl Marx から転送)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/03/30 18:08 UTC 版)
カール・マルクス(ドイツ語: Karl Marx、英語: Karl Marx FRSA[注釈 2]、1818年5月5日 - 1883年3月14日)は、プロイセン王国時代のドイツの哲学者、経済学者、革命家。社会主義および労働運動に強い影響を与えた。1845年にプロイセン国籍を離脱しており、以降は無国籍者であった。1849年(31歳)の渡英以降はイギリスを拠点として活動した。
注釈
- ^ さまざまな辞典で使用される「カール・ハインリヒ・マルクス」という名前は、誤りによるもの。彼の出生証明書には「カール・ハインリヒ・マルクス」と書かれているが、他の場所では「カール・マルクス」が使用されている。「K.H.マルクス」は、彼の詩集と彼の論文の書き起こしでのみ使用されている。マルクスは1838年に亡くなった父親に敬意を表したかったので、3つの文書で自分を「カール・ハインリヒ」と呼んだ。
- ^ 1862年、ロイヤル・ソサエティ・オブ・アーツ(英国王立技芸協会)より授かる[1]。
- ^ プロイセン政府は1815年にもドイツ連邦規約16条に基づき、ユダヤ教徒の公職追放を開始した。この措置とユダヤ人迫害機運の盛り上がりの影響でこの時期にユダヤ教徒から改宗者が続出した。ハインリヒ・ハイネやエドゥアルト・ガンスらもこの時期に改宗している[17]。マルクスの父ヒルシェルは当時トリーア市の法律顧問を務めていたため、やはり公職追放の危機に晒された。彼ははじめ改宗を拒否し、ナポレオン法典を盾に公職に止まろうとした。その主張は地方高等裁判所長官フォン・ゼーテからも支持を得ていたが、プロイセン中央政府の法務大臣フリードリヒ・レオポルト・フォン・キルヒアイゼンから例外措置はありえないと通告された。結局ヒルシェルはゼーテからの勧めで最終手段として改宗したのだった[18]。
- ^ ヨーゼフ・シュンペーターはマルクスの著作の傾向を看破したものとしてこの評価に注目しており、「マルクスがこの種の文体を使った時は、いつも何らかの隠さなければならない弱点があると見てよい」と評している[43]。
- ^ ヘーゲルは、当時プロイセンで最も高名な哲学者だった。ヘーゲルは、「この世の全てのものは矛盾をもっているので、不可避で否定を持つが、絶対的なもの(彼はこれを精神と見た)の意思に従って、否定から否定へとジグザグに動いて矛盾を解消して、より理性的な状態へと近づけていく運動である」と考えた。この概念で把握することを弁証法という[75][76]。ヘーゲルのこの考えに従えば、理性的なものは必ず現実に現れてくるはずだし、現在の状態は、必ず理性的な部分があるということになる。ヘーゲルは「理性の最高段階は国家であり、あらゆる矛盾は国家によって解消される」と考えた。そして、プロイセン王国こそがそれを最も体現している国であるとした。プロイセン政府にとっては、フランス革命的な西欧自由主義への対抗として、都合のいい哲学であった。しかし、ヘーゲルは1831年に死去し、その思想の継承者たちは右派・中央派・左派に分裂した。自由主義・啓蒙主義思想から封建主義的なプロイセンの現状の批判する左派は、現実の中に理性を探すのではなく、理性によって現実を審査すべきとしてヘーゲル批判を行うようになった。若き日のマルクスも、このヘーゲル左派の立場に立った[77]。
- ^ 前王フリードリヒ・ヴィルヘルム3世は優柔不断な性格の王でヘーゲル派のカール・フォム・シュタイン・ツム・アルテンシュタインを文部大臣にしていたため、これまでヘーゲル左派への弾圧も比較的緩やかであった[99]。
- ^ デモクリトスとエピクロスはアトム(原子)を論じた古代ギリシャの哲学者。デモクリトスはあらゆるものはアトムが直線的に落下して反発しあう運動で構成されていると考えた初期唯物論者だった。これに対してエピクロスはデモクリトスのアトム論を継承しつつもアトムは自発的に直線からそれる運動(偏差)をすることがあると考えた[102]。近代まで長らくエピクロスはデモクリトスに余計なものを付け加えた改悪者とされてきたが、自由主義の風潮が高まると哲学的観点から再評価が始まった。デモクリトスのアトム論では人間の行動や心までもアトムの運動による必然ということになってしまうのに対し、エピクロスは偏差の考えを付け加えることで自由を唯物論の中に取り込もうとしたのではないかと考えられるようになったからである。ヘーゲル左派もエピクロスをストア派や懐疑主義とともに自分たちの「自己意識」の立場の原型と看做した。マルクスもそうした立場を踏襲してエピクロスとデモクリトスを比較する論文を書いたのだった[103]。
- ^ ルーゲはマルクスの論文を含む掲載を認められなかった論文を1843年にスイスで『アネクドータ(Anekdote)』という雑誌にして出版している[115]。
- ^ この新聞は自由主義的だが、ライン地方がプロイセン領であること自体は受け入れており、親仏的・反プロイセン的カトリック新聞『ケルン新聞』への対抗としてプロテスタントのプロイセン政府としても必ずしも邪魔な存在ではなく、その発刊に際しては好意的でさえあったという[119][120]。
- ^ ただしこの論説のなかでマルクスは「プルードンの洞察力ある著作については研究の必要がある」ともしている[135][136][137]。
- ^ 農民が森林所有者の許可なく木材を採取することを盗伐として取り締まる法案。マルクスはこの法案を貧民の慣習上の権利を侵すものとして反対した。ただしこの法案は森林所有者の財産権保護だけを目的とする物ではなく、当時凄まじい勢いで進んでいた森林伐採を抑えようという自然環境保護の目的もあった。そちらの観点についてはマルクスは何も語っていない[142]。
- ^ 仮借ない批判で知られるマルクスだが、不思議なことにハイネだけは最後まで批判しなかった。マルクスとハイネの意見が相違しなかったからではない。ハイネはプロレタリアートが勝利した世界に芸術や美術の居場所はないと感じ取り、共産主義を好んでいなかった。また1856年に死去した際には神に許しを請う遺言書を書いている。このような「反共」や「信仰への墜落」にも関わらず、マルクスはハイネに対して何らの非難も発しなかったのである。マルクスの娘のエレナによれば「父はあの詩人をその作品と同じぐらい愛していました。だから彼の政治的弱さはどこまでも大目に見ていたのです。それを父はこう説明していました。『詩人というのは妙な人種で彼らには好きな道を歩ませてやらねばならない。彼らを常人の尺度で、いや常人ではない尺度でも図ってはならないのだ』」[184]。
- ^ ブリュッセル時代にもモーゼス・ヘスとマルクス・エンゲルスはしばしば共同で研究をしていたが、ヘスは哲学的観点が抜けきれず、階級闘争など過激な路線を嫌い、階級間を和合させようとしたため、マルクスたちから「真正社会主義者」という批判を受けた[244]。
- ^ たとえば貴族や聖職者がブルジョワへの復讐で提唱する「封建主義的社会主義・キリスト教的社会主義」、ブルジョワの一部が自分の支配権を延命させるべく主張する「ブルジョワ社会主義」、大工業化で零落した小ブルジョワによるギルド的な「小ブルジョワ社会主義」、哲学者が思弁的哲学の中だけで作っている「真正社会主義」、プロレタリアート革命なしで階級対立と搾取の無い世界を実現できるかのように語る「空想的社会主義」などである[270][271]。
- ^ ルイ・フィリップ王は1830年の7月革命で復古王政が打倒された後、ブルジョワに支えられて王位に就き、多くの自由主義改革を行った人物である。しかしその治世中、労働者階級が台頭するようになり、労働運動が激化した。1839年に社会主義者ルイ・オーギュスト・ブランキの一揆が発生したことがきっかけで保守化を強め、ギゾーを中心とした専制政治を行うようになった[274]。1847年の恐慌で失業者数が増大、社会的混乱が増して革命前夜の空気が漂い始めた。そして1848年2月22日、パリで選挙法改正運動が政府に弾圧されたのがきっかけで暴動が発生[275]。23日にはギゾーが首相を辞し、24日にはルイ・フィリップ王は国外へ逃れる事態となったのである[276][277]。
- ^ こうしたドイツにおける1848年革命は「3月革命」と呼ばれる。
- ^ たとえば『共産党宣言』では「あらゆる相続権の廃止」「全ての土地の国有化」となっていたのを、『ドイツにおける共産党の要求』では「相続権の縮小」「封建主義的領地の国有化」としている。また国立銀行の創設の要求について「国立銀行が貨幣を硬貨と交換するようになれば、万国の両替手数料は安くなり、外国貿易に金銀が使用可能となる」とブルジョワ目線で説明を付けている[295]。
- ^ マルクスの独裁ぶりを象徴するのがケルン労働者協会会長で共産主義者同盟にも所属していたアンドレアス・ゴットシャルクをつまらないことで激しく糾弾したことだった。ゴットシャルクはこれにうんざりして共産主義者同盟から離脱してしまった。マルクスのゴットシャルク批判は方針の相違では説明を付け難い。フランシス・ウィーンは、「嫉妬がからんでいたということだけは言えるだろう」としている。ウィーンによれば、マルクスは自分の統括下にない組織や機関に批判的だったし、貧しい人たちへの医療活動で知られる医者のゴットシャルクは編集発行人のマルクスより多くの信奉者を得ていた[308]。
- ^ エンゲルスはロンドンに来た後、ロンドンの新聞社に務めることを夢見ていたが、その夢は叶わず、他の自活の手段も見つけられなかったので父親と和解し、1850年12月からマンチェスターにある父の共同所有する会社で勤務するようになった[360]。とはいえこの頃エンゲルスの給料も年100ポンドを超えることはなかったと見られており、また父の代わりにマンチェスターの大世帯をやり繰りしなければならなかったのでマルクスにやれる金にも限度があった[361]。
- ^ これについてマルクスの伝記を書いたE・H・カーは「マルクスはラッサールに腹を立てていた。彼を軽蔑したり、時には憎悪したこともあった。彼に対して陰謀を企みもした。しかしラッサールには常に生々しい情熱、力強い人格、自己犠牲の献身、紛う方なき天才の閃きがあり、これがために否応なくマルクスから尊敬を、ほとんど愛情さえ勝ち得たのである。マルクスはエンゲルスの冷静な批判の影響を受けたが、それに完全に納得したことは一度もなかった。恐らくマルクスがゲットーのユダヤ人を軽蔑していたにも関わらず、目に見えぬ、自分には気づかれぬ人種的親近性があったのであろう。二人の意見と性格がどれほど違っても、マルクスがラッサールに無関心であったことは一度もなかった。ラッサールの死はマルクスの生涯においてもヨーロッパ社会主義の歴史においても、一時期を画した」と評している[440]。
- ^ たとえば『フレイザーズ・マガジン』は「インターナショナルの影響について我々はあまり目にすることも耳にすることもないが、その隠された手は神秘的かつ恐ろしい力で革命装置を操っている」と書いた[507]。『ペルメル・ガゼット』紙は「マルクスは生まれながらのユダヤ人であり、政治的共産主義を生み出すことを目的とする途方もない陰謀の長である」と書いた[508]。フランスのある新聞は「マルクスは陰謀家の最高権威であり、ロンドンの隠れ家からコミューンを指揮した。インターナショナルは700万人の会員を擁し、全員がマルクスの決起命令を待っている」などと報じている[509]。
- ^ インターナショナルの再建にはその後13年を要し、マルクスは既に他界している。再建された第二インターナショナルは、イギリス労働党、フランス社会党、ドイツ社会民主党、ロシア社会民主党といった有力政党を抱えるヨーロッパの一大政治組織になった。第二インターナショナルはドイツのベルンシュタインからロシアのレーニンまで多様な政治的色彩をもつ党派の連合体だった。
- ^ マルクス派が優勢になったドイツ社会主義労働者党は、1891年にドイツ社会民主党と党名を変更しエルフルト綱領を制定した[534]。この中で、エンゲルスは『ゴータ綱領批判』を出版しラサール主義の色が強いゴータ綱領を批判した[535]。
- ^ 『資本論』第4部こと『剰余価値学説史』は、エンゲルスの死後カール・カウツキーの編集で出版されたが、これが本文の改竄を含んでいるという理由で、ソ連マルクス=レーニン主義研究所により編集し直された。これは構成および各節の小見出しが上の研究所の手になるものである。その後、未編集の草稿の状態を再現した「1861-63年の経済学草稿」が日本語訳でも出版されている。『資本論』に関するもの以外にもマルクス、エンゲルスの死後に発見された著作やノートには同様の問題をはらんでいるものがあり、特に1932年のいわゆる旧MEGAに収録された『ドイツ・イデオロギー』は原稿の並べ替えが行われ、廣松渉から「偽書」と批判された(詳細は『新編輯版 ドイツ・イデオロギー』(岩波文庫)の「解説」および『廣松渉著作集』、岩波書店、第八巻参照)。『経済学・哲学草稿』は旧MEGA版、ディーツ版、ティアー版などの各版で順序や収録された原稿が異なる[559]。
- ^ マルクス自身も色黒のユダヤ系であったが、マルクスはラッサールが色黒のユダヤ系なのを捉えて彼が黒人系ユダヤ人であると揶揄していた。エンゲルスへの手紙の中で「彼(ラッサール)の頭の髪の伸び方(縮れ毛)がよく示している通り、彼はモーセがユダヤ人を連れてエジプトから脱出した際に同行したニグロの子孫である。彼の母親か父親がニガーと交わったのでない限り。片やドイツとユダヤの混ぜ合わせ、かたやニグロの血、この二つがこの奇妙な生き物をこの世に誕生させたのだ。この男のしつこさは紛れもなくニガーのそれである」と書いている[586][608][609]。
- ^ さらにバーリンは述べる。「マルクスは自分の思想が他の思想家に負うていることを決して否定しようとはしなかった。」「マルクスの求める指標は目新しさではなく、真理であった。彼はその思想が最終的な形を取り始めたパリ時代の初期に他人の著作の中に真理を発見すると自己の新しい総合の中にそれを組み入れようと努力した」「マルクスはこれら膨大な素材をふるいにかけて、その中から独創的で真実かつ重要と思えるものを引き出してきた。そしてそれらを参照しつつ、新しい社会分析の方法を構築したのである。」「この長所は簡明な基本的諸原理を包括的・現実的にかつ細部にわたって見事に総合したことである」「いかなる現象であれ最も重要な問題は、その現象が経済構造に対して持っている関係、すなわちこの現象をその表現とする社会構造の中での経済力の諸関係に関わるものであると主張することによって、この理論は新しい批判と研究の道具を作り出したのである。」
出典
- ^ Ref No RSA/SC/IM/701/S1000 < Search results
- ^ a b c 佐々木 2016, pp. 257–259.
- ^ 林(2021) p.94-95,102
- ^ a b c d ウィーン(2002) p.21
- ^ カー(1956) p.14
- ^ a b 廣松(2008) p.16
- ^ a b 小牧(1966) p.39
- ^ a b c d e 廣松(2008) p.17
- ^ a b 石浜(1931) p.43
- ^ 廣松(2008) p.18/22
- ^ 城塚(1970) p.26-27
- ^ ウィーン(2002) p.17
- ^ a b ウィーン(2002) p.18
- ^ 石浜(1931) p.44
- ^ 城塚(1970) p.25
- ^ Nikolaus Sandmann: Heinrich Marx, Jude, Freimaurer und Vater von Karl Marx. In: Humanität, Zeitschrift für Gesellschaft, Kultur und Geistesleben, Hamburg; Heft 5/1992, p.13–15.
- ^ 廣松(2008) p.19
- ^ 廣松(2008) p.19-20
- ^ 廣松(2008) p.17-19
- ^ シュワルツシルト(1950) p.3/8
- ^ a b スパーバー 2015a, p. 44.
- ^ a b c d カー(1956) p.15
- ^ メーリング(1974) 1巻 p.36
- ^ シュワルツシルト(1950) p.4/9
- ^ Heinz Monz: Der Erbteilungsvertraag Henriette Marx
- ^ Manfred Schöncke: Karl und Heinrich Marx und ihre Geschwister, S. 307–309
- ^ Jan Gielkens, S. 220–221
- ^ シュワルツシルト(1950) p.9-10
- ^ 石浜(1931) p.46
- ^ メーリング(1974) 1巻 p.40
- ^ 廣松(2008) p.21
- ^ ウィーン(2002) p.21-22
- ^ a b 廣松(2008) p.25
- ^ 小牧(1966) p.43
- ^ a b c ウィーン(2002) p.22
- ^ ウィーン(2002) p.19
- ^ 廣松(2008) p.26
- ^ a b 廣松(2008) p.27
- ^ シュワルツシルト(1950) p.18
- ^ シュワルツシルト(1950) p.17
- ^ 廣松(2008) p.29
- ^ カー(1956) p.16-17
- ^ a b シュワルツシルト(1950) p.18-19
- ^ カー(1956) p.16
- ^ カー(1956) p.17
- ^ a b c 城塚(1970) p.30
- ^ 石浜(1931) p.52-53
- ^ 廣松(2008) p.64-65
- ^ ウィーン(2002) p.24
- ^ a b 佐々木 2016, pp. 21–22.
- ^ a b 廣松(2008) p.65-66
- ^ シュワルツシルト(1950) p.21
- ^ a b メーリング(1974) 1巻 p.43
- ^ a b ウィーン(2002) p.27
- ^ 廣松(2008) p.66
- ^ 石浜(1931) p.56
- ^ 廣松(2008) p.156
- ^ 佐々木 2016, p. 20.
- ^ カー(1956) p.22-23
- ^ ウィーン(2002) p.26/28
- ^ ウィーン(2002) p.28
- ^ 佐々木 2016, pp. 22–23.
- ^ カー(1956) p.23
- ^ メーリング(1974) 1巻 p.45
- ^ スパーバー 2015a, p. 73.
- ^ 石浜(1931) p.57
- ^ a b c 城塚(1970) p.31
- ^ メーリング(1974) 1巻 p.51
- ^ 石浜(1931) p.55
- ^ a b メーリング(1974) 1巻 p.50
- ^ 石浜(1931) p.57-58
- ^ 廣松(2008) p.66-67
- ^ 廣松(2008) p.67-68
- ^ 石浜(1931) p.62-64
- ^ 小牧(1966) p.72
- ^ シュワルツシルト(1950) p.41-42
- ^ 小牧(1966) p.74-76
- ^ a b 佐々木 2016, pp. 25–35.
- ^ 石浜(1931) p.66
- ^ 廣松(2008) p.80
- ^ 廣松(2008) p.67
- ^ シュワルツシルト(1950) p.29
- ^ ウィーン(2002) p.39
- ^ a b c カー(1956) p.27
- ^ 城塚(1970) p.32
- ^ メーリング(1974) 1巻 p.54
- ^ 石浜(1931) p.68-69
- ^ メーリング(1974) 1巻 p.64
- ^ シュワルツシルト(1950) p.37
- ^ a b 廣松(2008) p.96
- ^ シュワルツシルト(1950) p.43
- ^ 廣松(2008) p.68
- ^ メーリング(1974) 1巻 p.56
- ^ シュワルツシルト(1950) p.33
- ^ ウィーン(2002) p.39-40
- ^ ウィーン(2002) p.43
- ^ a b 廣松(2008) p.93-94
- ^ 城塚(1970) p.42
- ^ a b 廣松(2008) p.123-125
- ^ a b ウィーン(2002) p.44
- ^ ウィーン(2002) p.43/45-46
- ^ 小牧(1966) p.67-68
- ^ 城塚(1970) p.54-59
- ^ 石浜(1931) p.72
- ^ 城塚(1970) p.59/61-62
- ^ 廣松(2008) p.105-106
- ^ カー(1956) p.28
- ^ a b c d e 廣松(2008) p.126
- ^ 廣松(2008) p.125-126
- ^ a b c d カー(1956) p.31
- ^ a b c ウィーン(2002) p.46
- ^ 城塚(1970) p.67
- ^ a b 廣松(2008) p.128
- ^ シュワルツシルト(1950) p.48
- ^ 石浜(1931) p.77
- ^ 石浜(1931) p.76-77
- ^ 城塚(1970) p.68
- ^ a b ウィーン(2002) p.49
- ^ a b 廣松(2008) p.130
- ^ シュワルツシルト(1950) p.49-50
- ^ 石浜(1931) p.79
- ^ カー(1956) p.32-33
- ^ 太田(1930) p.7
- ^ シュワルツシルト(1950) p.50
- ^ シュワルツシルト(1950) p.53-54
- ^ 石浜(1931) p.80-81
- ^ カー(1956) p.33
- ^ 佐々木 2016, p. 37.
- ^ シュワルツシルト(1950) p.61
- ^ a b シュワルツシルト(1950) p.62
- ^ 廣松(2008) p.147
- ^ 城塚(1970) p.85
- ^ a b c 廣松(2008) p.152
- ^ シュワルツシルト(1950) p.66
- ^ a b ウィーン(2002) p.58
- ^ 石浜(1931) p.82
- ^ 廣松(2008) p.143
- ^ a b 佐々木 2016, pp. 37–39.
- ^ 石浜(1931) p.82-83
- ^ 城塚(1970) p.80
- ^ 廣松(2008) p.142-143
- ^ 廣松(2008) p.140
- ^ シュワルツシルト(1950) p.72
- ^ ウィーン(2002) p.62-63
- ^ 石浜(1931) p.85
- ^ カー(1956) p.35
- ^ a b 太田(1930) p.9
- ^ ウィーン(2002) p.64
- ^ 石浜(1931) p.87
- ^ a b c 佐々木 2016, pp. 39–42.
- ^ 廣松(2008) p.152-153
- ^ 石浜(1931) p.89-90
- ^ カー(1956) p.37
- ^ 石浜(1931) p.90
- ^ 廣松(2008) p.155
- ^ ウィーン(2002) p.69
- ^ ウィーン(2002) p.68-69
- ^ a b c d シュワルツシルト(1950) p.78
- ^ 城塚(1970) p.87
- ^ 佐々木 2016, pp. 43–45.
- ^ 小牧(1966) p.81-82
- ^ 城塚(1970) p.88
- ^ 廣松(2008) p.190
- ^ カー(1956) p.100
- ^ バーリン(1974) p.84
- ^ 小牧(1966) p.104-107
- ^ 城塚(1970) p.90
- ^ 小牧(1966) p.107
- ^ a b 石浜(1931) p.89
- ^ 城塚(1970) p.91-92
- ^ 廣松(2008) p.163
- ^ 城塚(1970) p.94-96
- ^ 廣松(2008) p.171
- ^ 城塚(1970) p.97
- ^ 廣松(2008) p.167-170
- ^ 石浜(1931) p.90-92
- ^ カー(1956) p.38
- ^ 廣松(2008) p.195
- ^ 石浜(1931) p.92
- ^ シュワルツシルト(1950) p.79
- ^ 石浜(1931) p.94-95
- ^ a b 小牧(1966) p.111
- ^ a b c シュワルツシルト(1950) p.80
- ^ ウィーン(2002) p.84
- ^ カー(1956) p.55-56
- ^ 城塚(1970) p.127-128
- ^ a b 石浜(1931) p.95
- ^ 小牧(1966) p.111-112
- ^ バーリン(1974) p.106-107
- ^ 小牧(1966) p.113
- ^ 小牧(1966) p.115
- ^ 小牧(1966) p.116-117
- ^ 城塚(1970) p.114-116
- ^ 廣松(2008) p.219-221
- ^ 石浜(1931) p.96
- ^ 廣松(2008) p.222
- ^ ウィーン(2002) p.85-86
- ^ シュワルツシルト(1950) p.87
- ^ ウィーン(2002) p.85
- ^ 石浜(1931) p.105
- ^ a b c シュワルツシルト(1950) p.88
- ^ 廣松(2008) p.206
- ^ 小牧(1966) p.121
- ^ 石浜(1931) p.104-105
- ^ a b シュワルツシルト(1950) p.89
- ^ カー(1956) p.47
- ^ 佐々木 2016, p. 62.
- ^ a b 小牧(1966) p.122
- ^ 城塚(1970) p.127-129
- ^ 城塚(1970) p.128
- ^ 小牧(1966) p.123-124
- ^ 城塚(1970) p.129-130
- ^ 城塚(1970) p.131
- ^ 城塚(1970) p.136-138
- ^ 小牧(1966) p.124
- ^ 小牧(1966) p.124-125
- ^ 城塚(1970) p.139
- ^ 城塚(1970) p.144
- ^ 小牧(1966) p.122-123
- ^ 石浜(1931) p.117
- ^ 佐々木 2016, pp. 62–63.
- ^ 小牧(1966) p.129-132
- ^ 佐々木 2016, p. 52.
- ^ 石浜(1931) p.106-108
- ^ ウィーン(2002) p.87
- ^ シュワルツシルト(1950) p.106
- ^ a b カー(1956) p.58-59
- ^ 石浜(1931) p.108-109
- ^ a b ウィーン(2002) p.112
- ^ 小牧(1966) p.121-122/135
- ^ シュワルツシルト(1950) p.118
- ^ 石浜(1931) p.93/109
- ^ 小牧(1966) p.135-136
- ^ 石浜(1931) p.109
- ^ シュワルツシルト(1950) p.120
- ^ ウィーン(2007)
- ^ 石浜(1931) p.124
- ^ 石浜(1931) p.130
- ^ 小牧(1966) p.136
- ^ 石浜(1931) p.122-123
- ^ 小牧(1966) p.137
- ^ ウィーン(2002) p.115-116
- ^ 石浜(1931) p.125
- ^ 石浜(1931) p.137
- ^ 石浜(1931) p.129-130
- ^ 小牧(1966) p.138
- ^ 小牧(1966) p.138-139
- ^ 石浜(1931) p.144
- ^ 小牧(1966) p.141-142
- ^ 小牧(1966) p.142
- ^ 小牧(1966) p.142-143
- ^ 小牧(1966) p.144
- ^ 小牧(1966) p.145-146
- ^ 小牧(1966) p.146-147
- ^ 小牧(1966) p.153
- ^ a b c d e f 佐々木 2016, pp. 88–91.
- ^ 石浜(1931) p.146
- ^ 小牧(1966) p.154
- ^ ウィーン(2002) p.127
- ^ ウィーン(2002) p.127-131
- ^ シュワルツシルト(1950) p.147-158
- ^ ウィーン(2002) p.132
- ^ 石浜(1931) p.146-150
- ^ 小牧(1966) p.155
- ^ a b ウィーン(2002) p.138
- ^ 石浜(1931) p.153-154
- ^ 小牧(1966) p.156
- ^ ウィーン(2002) p.145
- ^ 小牧(1966) p.157-162
- ^ a b 石浜(1931) p.155
- ^ 小牧(1966) p.163-165
- ^ 小牧(1966) p.166
- ^ カー(1956) p.79
- ^ 石浜(1931) p.157-158
- ^ a b 小牧(1966) p.168
- ^ 石浜(1931) p.160
- ^ ウィーン(2002) p.151
- ^ 石浜(1931) p.158-160
- ^ “1848年革命とは”. コトバンク. 2021年11月3日閲覧。
- ^ 石浜(1931) p.162
- ^ 石浜(1931) p.163
- ^ エンゲルベルク(1996) p.257-258
- ^ 石浜(1931) p.162-163
- ^ 小牧(1966) p.169
- ^ 石浜(1931) p.166
- ^ a b カー(1956) p.83
- ^ a b メーリング(1974) 1巻 p.266
- ^ a b ウィーン(2002) p.153
- ^ ウィーン(2002) p.152
- ^ 小牧(1966) p.170
- ^ a b c ウィーン(2002) p.154
- ^ 小牧(1966) p.170-171
- ^ メーリング(1974) 1巻 p.267
- ^ ウィーン(2002) p.155
- ^ a b ウィーン(2002) p.156-157
- ^ a b c ウィーン(2002) p.156
- ^ a b 石浜(1931) p.169
- ^ カー(1956) p.84
- ^ a b c d カー(1956) p.86
- ^ a b 石浜(1931) p.171
- ^ ウィーン(2002) p.157
- ^ a b ウィーン(2002) p.158
- ^ a b c 石浜(1931) p.173
- ^ メーリング(1974) 1巻 p.268
- ^ スパーバー 2015a, p. 285.
- ^ a b c ウィーン(2002) p.159
- ^ スパーバー 2015a, p. 287.
- ^ ウィーン(2002) p.161-162
- ^ 小牧(1966) p.172
- ^ a b カー(1956) p.87
- ^ a b 石浜(1931) p.174
- ^ 小牧(1966) p.172-173
- ^ バーリン(1974) p.185
- ^ a b メーリング(1974) 1巻 p.275-276
- ^ a b エンゲルベルク(1996) p.279
- ^ エンゲルベルク(1996) p.278
- ^ エンゲルベルク(1996) p.280
- ^ メーリング(1974) 1巻 p.271-272
- ^ メーリング(1974) 1巻 p.272-273/290
- ^ ウィーン(2002) p.164
- ^ ウィーン(2002) p.164-166
- ^ エンゲルベルク(1996) p.299-300
- ^ エンゲルベルク(1996) p.301
- ^ エンゲルベルク(1996) p.303
- ^ 石浜(1931) p.179
- ^ a b ウィーン(2002) p.173
- ^ メーリング(1974) 1巻 p.305
- ^ 石浜(1931) p.179-180
- ^ a b メーリング(1974) 1巻 p.306
- ^ ウィーン(2002) p.174-175
- ^ 石浜(1931) p.182
- ^ エンゲルベルク(1996) p.320
- ^ a b c ウィーン(2002) p.175
- ^ 小牧(1966) p.174-175
- ^ a b メーリング(1974) 1巻 p.317
- ^ a b メーリング(1974) 1巻 p.318
- ^ 小牧(1966) p.176
- ^ ウィーン(2002) p.176
- ^ a b ウィーン(2002) p.176-177
- ^ a b メーリング(1974) 1巻 p.319
- ^ 鹿島(2004) p.63-68
- ^ a b 鹿島(2004) p.79
- ^ a b ウィーン(2002) p.177
- ^ バーリン(1974) p.190
- ^ ウィーン(2002) p.177-179
- ^ バーリン(1974) p.191
- ^ カー(1956) p.121-122
- ^ a b カー(1956) p.123
- ^ 石浜(1931) p.206
- ^ ウィーン(2002) p.199
- ^ バーリン(1974) p.205
- ^ シュワルツシルト(1950) p.265
- ^ a b 佐々木 2016, pp. 91–94.
- ^ カー(1956) p.127
- ^ 小牧(1966) p.180
- ^ ウィーン(2002) p.212
- ^ シュワルツシルト(1950) p.267
- ^ バーリン(1974) p.206
- ^ a b c d ウィーン(2002) p.215
- ^ a b c バーリン(1974) p.204
- ^ バーリン(1974) p.206-207
- ^ カー(1956) p.123/128
- ^ ウィーン(2002) p.178
- ^ メーリング(1974) 2巻 p.7
- ^ a b ウィーン(2002) p.183
- ^ 石浜(1931) p.187-188
- ^ a b 小牧(1966) p.177
- ^ a b カー(1956) p.122
- ^ ウィーン(2002) p.187
- ^ メーリング(1974) 2巻 p.7-8
- ^ 石浜(1931) p.189-190
- ^ 小牧(1966) p.177-178
- ^ バーリン(1974) p.209
- ^ バーリン(1974) p.210
- ^ 石浜(1931) p.211
- ^ バーリン(1974) p.217
- ^ カー(1956) p.186
- ^ メーリング(1974) 2巻 p.22-24
- ^ 石浜(1931) p.190-191
- ^ カー(1956) p.144
- ^ メーリング(1974) 2巻 p.24-25
- ^ 石浜(1931) p.191-192
- ^ メーリング(1974) 2巻 p.27
- ^ エンゲルベルク(1996) p.343-344
- ^ 石浜(1931) p.195
- ^ カー(1956) p.144-145
- ^ 石浜(1931) p.195-196
- ^ a b カー(1956) p.145
- ^ カー(1956) p.146
- ^ カー(1956) p.147
- ^ カー(1956) p.147-149
- ^ a b 小牧(1966) p.178
- ^ シュワルツシルト(1950) p.271
- ^ a b カー(1956) p.151
- ^ 石浜(1931) p.207-209
- ^ シュワルツシルト(1950) p.273
- ^ スパーバー 2015b, p. 8.
- ^ 鹿島(2004) p.118-139
- ^ 佐々木 2016, p. 91.
- ^ a b c カー(1956) p.152
- ^ ウィーン(2002) p.225
- ^ a b c メーリング(1974) 2巻 p.80-81
- ^ カー(1956) p.184
- ^ カー(1956) p.207
- ^ メーリング(1974)2巻 p.126
- ^ 石浜(1931) p.224-225
- ^ a b メーリング(1974)2巻 p.126-128
- ^ メーリング(1974)2巻 p.133
- ^ メーリング(1974)2巻 p.134
- ^ 江上(1972) p.110-111
- ^ カー(1956) p.209-210
- ^ 江上(1972) p.107-108
- ^ a b ウィーン(2002) p.266
- ^ シュワルツシルト(1950) p.268
- ^ ウィーン(2002) p.266-270
- ^ a b バーリン(1974) p.240
- ^ ウィーン(2002) p.271
- ^ 石浜(1931) p.232-233
- ^ ウィーン(2002) p.269-270
- ^ シュワルツシルト(1950) p.269
- ^ 小牧(1966) p.185-187
- ^ 小牧(1966) p.188-189
- ^ バーリン(1974) p.228
- ^ 小牧(1966) p.196-199
- ^ 小牧(1966) p.199-204
- ^ 小牧(1966) p.203-206
- ^ 小牧(1966) p.208
- ^ a b c ウィーン(2002) p.296
- ^ 江上(1972) p.132
- ^ ウィーン(2002) p.297
- ^ ウィーン(2002) p.297-298
- ^ a b ウィーン(2002) p.298
- ^ ウィーン(2002) p.301-303
- ^ エンゲルベルク(1996) p.482-483
- ^ 江上(1972) p.167-189
- ^ 江上(1972) p.209
- ^ カー(1956) p.245-246
- ^ アウグスト・ベーベル『ベーベル自叙伝』[要ページ番号]
- ^ 江上(1972) p.261
- ^ カー(1956) p.249
- ^ カー(1956) p.248-249
- ^ メーリング(1974)2巻 p.194
- ^ カー(1956) p.251
- ^ ウィーン(2002) p.319-320
- ^ ウィーン(2002) p.320
- ^ ガンブレル(1989) p.136-137
- ^ ウィーン(2002) p.321
- ^ ウィーン(2002) p.322
- ^ ウィーン(2002) p.322-323
- ^ ガンブレル(1989) p.139
- ^ メーリング(1974)3巻 p.182
- ^ 石浜(1931) p.241-242
- ^ 石浜(1931) p.242-243
- ^ 鹿島(2004) p.178
- ^ 鹿島(2004) p.369-370
- ^ 石浜(1931) p.243
- ^ 江上(1972) p.210
- ^ カー(1956) p.255
- ^ カー(1956) p.259-261
- ^ カー(1956) p.259
- ^ カー(1956) p.262
- ^ 石浜(1931) p.245-249
- ^ a b c カー(1956) p.263
- ^ a b 石浜(1931) p.249
- ^ 石浜(1931) p.256
- ^ 小牧(1966) p.211
- ^ カー(1956) p.266
- ^ カー(1956) p.266-267
- ^ カー(1956) p.268
- ^ カー(1956) p.266/269
- ^ カー(1956) p.270
- ^ a b c d カー(1956) p.269
- ^ シュワルツシルト(1950) p.329-330
- ^ シュワルツシルト(1950) p.330
- ^ カー(1956) p.287
- ^ カー(1956) p.288-289
- ^ カー(1956) p.288-290
- ^ メーリング(1974)2巻 p.215-216
- ^ a b c カー(1956) p.291
- ^ メーリング(1974) 3巻 p.79
- ^ シュワルツシルト(1950) p.340-341
- ^ a b メーリング(1974)3巻 p.78
- ^ a b カー(1956) p.292
- ^ a b カー(1956) p.295
- ^ メーリング(1974) 3巻 p.81-82
- ^ カー(1956) p.296-297
- ^ カー(1956) p.297
- ^ メーリング(1974) 3巻 p.79-80
- ^ a b c 小牧(1966) p.214
- ^ カー(1956) p.299
- ^ メーリング(1974) 3巻 p.80
- ^ ウィーン(2002) p.385
- ^ ウィーン(2002) p.387
- ^ カー(1956) p.298-299
- ^ カー(1956) p.299-300
- ^ カー(1956) p.300
- ^ ウィーン(2002) p.388-389
- ^ カー(1956) p.301
- ^ カー(1956) p.302-303
- ^ a b c d ウィーン(2002) p.391
- ^ メーリング(1974)3巻 p.97
- ^ カー(1956) p.303
- ^ 石浜(1931) p.269
- ^ メーリング(1974)3巻 p.103
- ^ a b カー(1956) p.304
- ^ カー(1956) p.307
- ^ ウィーン(2002) p.399
- ^ ウィーン(2002) p.400
- ^ ウィーン(2002) p.398
- ^ a b カー(1956) p.309
- ^ ガンブレル(1989) p.150
- ^ カー(1956) p.310
- ^ カー(1956) p.333
- ^ カー(1956) p.321-325
- ^ ウィーン(2002) p.380-383
- ^ バーリン(1974) p.243
- ^ バーリン(1974) p.242/274
- ^ バーリン(1974) p.242-243
- ^ a b ウィーン(2002) p.408
- ^ バーリン(1974) p.244
- ^ 外川(1973) p.390
- ^ ウィーン(2002) p.409
- ^ a b ウィーン(2002) p.416
- ^ バーリン(1974) p.273-274
- ^ カー(1956) p.354-355
- ^ a b ウィーン(2002) p.412-413
- ^ a b バーリン(1974) p.274
- ^ a b ウィーン(2002) p.413
- ^ 渡辺孝次(1996)『時計職人とマルクス』同文館p.309-310
- ^ a b バーリン(1974) p.276
- ^ カー(1956) p.394-395
- ^ 石浜(1931) p.275-276
- ^ カー(1956) p.395
- ^ “ドイツ社会民主党とは”. コトバンク. 2021年11月3日閲覧。
- ^ “ゴータ綱領とは”. コトバンク. 2021年11月3日閲覧。
- ^ a b c バーリン(1974) p.277
- ^ カー(1956) p.396
- ^ a b c d カー(1956) p.397
- ^ a b c d カー(1956) p.398
- ^ シュワルツシルト(1950) p.411-412/414
- ^ カー(1956) p.401-402
- ^ カー(1956) p.402
- ^ カー(1956) p.403
- ^ カー(1956) p.405
- ^ カー(1956) p.406
- ^ a b カー(1956) p.407
- ^ バーリン(1974) p.292
- ^ 石浜(1931) p.280
- ^ メーリング(1974)3巻 p.215-216
- ^ a b カー(1956) p.408
- ^ 石浜(1931) p.281
- ^ メーリング(1974)3巻 p.216
- ^ カー(1956) p.410
- ^ 石浜(1931) p.281-282
- ^ メーリング(1974)3巻 p.217
- ^ 小牧(1966) p.221
- ^ a b メーリング(1974)3巻 p.219-221
- ^ 小牧(1966) p.221-222
- ^ 『経済学・哲学草稿』、岩波文庫版、p.298
- ^ ウィーン(2002) p.461
- ^ 石浜(1931) p.284
- ^ Schriften von Karl Marx: "Das Manifest der Kommunistischen Partei" (1848) und "Das Kapital", ernster Band (1867)
- ^ ガンブレル(1989) p.170
- ^ マルクスの墓に爆弾『朝日新聞』1970年(昭和45年)1月19日朝刊 12版 15面
- ^ 生誕200年記念「マルクス紙幣」に注文殺到 額面は0 - 朝日新聞
- ^ 石浜(1931) p.272
- ^ メーリング(1974)3巻 p.175
- ^ カー(1956) p.401
- ^ 石浜(1931) p.274
- ^ ウィーン(2002) p.354
- ^ a b 小泉(1967) p.29
- ^ ウィーン(2002) p.353
- ^ a b c メーリング(1974)3巻 p.176
- ^ メーリング(1974)3巻 p.176-177
- ^ a b メーリング(1974)3巻 p.177
- ^ メーリング(1974)3巻 p.177-178
- ^ バーリン(1974) p.291
- ^ a b c d e メーリング(1974)3巻 p.178
- ^ a b c バーリン(1974) p.290
- ^ カー(1956) p.126
- ^ 『天才の勉強術』新潮選書、1994年。
- ^ ウィーン(2002) p.463
- ^ a b c カー(1956) p.124
- ^ a b ウィーン(2002) p.182
- ^ メーリング(1974) 2巻 p.75
- ^ a b ウィーン(2002) p.299
- ^ ウィーン(2002) p.51
- ^ ハイルブローナー(2001)
- ^ ウィーン(2002) p.81
- ^ ウィーン(2002) p.315-319
- ^ ウィーン(2002) p.357
- ^ John Bellamy Foster, Marx's Ecology: Materialism and Nature, p. 207.
- ^ ウィーン(2002) p.163
- ^ バーリン(1974) p.118
- ^ シュワルツシルト(1950) p.109
- ^ メーリング(1974)2巻 p.184
- ^ テレル・カーヴァー(1995)『マルクスとエンゲルスの知的関係』世界書院 p.153
- ^ 保住, 敏彦「エンゲルスの理論活動の意義と問題:没後100年を記念して」『経済学史学会年報』第33巻第33号、経済学史学会、1995年、39-51頁、doi:10.11498/jshet1963.33.39、ISSN 0453-4786、NAID 130004246154。
- ^ 佐々木, 隆治「いわゆる「転形問題」についての覚え書き」『立教經濟學研究』第70巻第1号、2016年、89 - 102頁、doi:10.14992/00012411。
- ^ オフェル・フェルドマン(2006)『政治心理学』ミネルヴァ書房 p.35
- ^ E.H.カー(1962)『歴史とは何か』岩波新書 p.134-136
- ^ イーグルトン(2011)『なぜマルクスは正しかったのか』河出書房新社 p.84
- ^ マルクス(2002)『ドイツ・イデオロギー』岩波文庫 p.230
- ^ マルクス(2008)『ルイ・ボナパルトのブリュメール18日』平凡社 p.198
- ^ E.H.カー(1962)『歴史とは何か』岩波新書 p.149
- ^ ウィーン(2002) p.73
- ^ 江上(1972) p.13
- ^ カー(1956) p.243
- ^ シュワルツシルト(1950) p.311
- ^ a b マルクス(1844)『ユダヤ人問題によせて』
- ^ シュワルツシルト(1950) p.155
- ^ a b ウィーン(2002) p.333
- ^ a b ウィーン(2002) p.333-334
- ^ ウィーン(2002) p.334-335
- ^ a b メーリング(1974)3巻 p.77
- ^ 石浜(1931) p.219
- ^ メーリング(1974)3巻 p.77-78
- ^ ウィーン(2002) p.385-386
- ^ 共産党宣言第二章
- ^ ウィーン(2002) p.244-245
- ^ カー(1956) p.183
- ^ カー(1956) p.316
- ^ マルクス・エンゲルス、大内兵衛・向坂逸郎訳(1848:1946)『共産党宣言』岩波書店p.86
- ^ マルクス「総評議会からラテン系スイス連合評議会へ」『マルクス・エンゲルス全集 16巻』大月書店p.383.
- ^ 今村仁司「解説」『マルクス・コレクション6』440-444頁
- ^ マルクス「イギリスのインド支配の将来の結果」『マルクス・エンゲルス全集 9巻』大月書店p.210-211.
- ^ マルクス「中国とヨーロッパにおける革命」『マルクス・コレクション6』296-297頁
- ^ ウィーン(2002) p.276
- ^ ウィーン(2002) p.467-468
- ^ カー(1956) p.412-413
- ^ バーリン(1974) p.19
- ^ バーリン(1974) p.18-20/205
- ^ 城塚(1970) p.132
- ^ Press Releases Marx wins In Our Time's Greatest Philosopher vote,BBC Radio 4,Date:13.07.2005
- ^ 小牧(1966) p.51/229
- ^ ウィーン(2002) p.218-219
- ^ ウィーン(2002) p.218
- ^ 廣松(2008) p.155-156
- ^ ウィーン(2002) p.68
- ^ メーリング(1974) 1巻 p.47
- ^ 石浜(1931) p.133-134
- ^ メーリング(1974) 1巻 p.47-48
- ^ カー(1956) p.404
- ^ 石浜(1931) p.289
- ^ ウィーン(2002) p.392
- ^ 石浜(1931) p.290
- ^ ウィーン(2002) p.462
- ^ スパーバー 2015b, p. 9.
- ^ 石浜(1931) p.134
- ^ ウィーン(2002) p.261-262
- ^ ウィーン(2002) p.264
- ^ スパーバー 2015a, p. 326-331.
- ^ ウィーン(2002) p.200
- ^ スパーバー 2015a, p. 332-337.
- ^ ウィーン(2002) p.211
- ^ カー(1956) p.386-387
- ^ マルクスに才能とケア労働を搾取された”父の娘”の壮絶な最後【毒家族に生まれて】Elle, ハースト婦人画報社、2021/09/03
- ^ Kapp, Eleanor Marx: Volume 2, pp. 696-697.
- ^ カー(1956) p.121
- ^ ウィーン(2002) p.205-211
- ^ ウィーン(2002) p.205
- ^ ウィーン(2002) p.209
- ^ ウィーン(2002) p.206
- ^ ウィーン(2002) p.205/462
- ^ Wheen, Francis (1999). Karl Marx. Fourth Estate. pp. 170–176
- ^ “中国がドイツに贈った「巨大マルクス像」が大論争を起こしたワケ”. 現代ビジネス (2018年5月11日). 2019年3月29日閲覧。
- ^ “マルクス像寄贈は中国のプロパガンダか? 独で議論「独裁の土台」「毒のある贈り物」”. 産経ニュース (2018年5月4日). 2019年10月16日閲覧。
- Karl Marxのページへのリンク