人類学者として
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埼玉大学助教授、東京外国語大学アジア・アフリカ言語文化研究所教授、広島市立大学国際学部教授を経て、神奈川大学日本常民文化研究所特別招聘教授。神奈川県湯河原町に在住していた。 2009年文化功労者。2010年秋瑞宝重光章、2021年文化勲章受章。1994年フランス政府より文化功労章を受章。2021年、日本民俗学会名誉会員。
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人類学者として
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2008年(平成20年)4月から2010年(平成22年)3月にかけて母校・京都大学大学院理学研究科研究員を務めた。また、2008年(平成20年)4月から2010年(平成22年)3月にかけて京都産業大学非常勤講師、2008年(平成20年)4月から2012年(平成24年)3月にかけて京都教育大学非常勤講師を兼任した。 2010年(平成22年)4月から2012年(平成24年)3月まで、独立行政法人・日本学術振興会特別研究員を務めた。その傍ら、2011年(平成23年)4月から2012年(平成24年)3月まで、龍谷大学非常勤講師、2011年(平成23年)9月には、北九州市立大学非常勤講師を兼任した。 2012年(平成24年)4月、静岡県立大学国際関係学部助教に就任、主として国際関係学科の講義に携わった。2012年(平成24年)10月から2014年(平成26年)3月にかけて、国立民族学博物館にて共同研究員、2013年(平成25年)4月から2015年(平成27年)3月にかけて、常葉大学にて社会環境学部非常勤講師を兼任した。さらに、2013年(平成25年)4月から2016年(平成28年)3月にかけては、京都大学にて地域研究統合情報センターの共同研究員を兼任した。2016年(平成28年)10月から2019年(平成31年)3月にかけては、同名の国立大学法人により設置・運営される静岡大学にて人文社会科学部の講師を非常勤で兼任した。
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人類学者として
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カリソケ研究センター客員研究員、日本モンキーセンターリサーチフェロー、京都大学霊長類研究所助手、京都大学大学院理学研究科助教授、同教授を経て、2014年7月3日に京都大学で行われた教職員による投票(意向調査)で山極が1位となり、翌日の4日の学長選考会議で正式に学長になることが決まった。2014年10月1日より総長に就任。京都大学の総長としては初の戦後生まれの総長となった。
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人類学者として
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「キャサリン・ダナム」の記事における「人類学者として」の解説
ジョリエット・ジュニア・カレッジでの勉強を終えると、ダナムはシカゴに移り、弟のアルバートが哲学を学んでいたシカゴ大学に通い始めた。人類学の教授であるロバート・レッドフィールドの講義で、現代アメリカの黒人文化の多くがアフリカに由来することを学んだダナムは、人類学を専攻してアフリカのディアスポラのダンスを研究することにした。レッドフィールドの他に、ダナムはA.R.ラドクリフ=ブラウン、エドワード・サピア、ブロニスワフ・マリノフスキといった人類学者に教えを受けている。彼らの指導のもと、ダナムは舞踊の民族誌的な研究において前途有望とみられた。 1935年、ダナムはジュリウス・ローゼンワルド財団とグッゲンハイム財団から渡航費の助成を受け、特にハイチのヴォドゥン(ヴードゥー)に見られるカリブの舞踊形式に関する民族誌的研究を行った。同じく人類学を学ぶ学生であったゾラ・ニール・ハーストンもカリブ海でフィールドワークを行っている。ダナムはさらにノースウェスタン大学のメルヴィル・ハースコヴィッツ教授との共同研究の助成金も受けた。アフリカ系アメリカ人におけるアフリカ文化の継承に関するハースコヴィッツの考えは、カリブにおけるダナムの研究の基盤となった。 ダナムのカリブでのフィールドワークはジャマイカで始まり、コックピット・カントリーの山奥にある、人里離れたマルーン(逃亡奴隷)村落であるアコンポンで数ヶ月生活した(後にダナムは著書『アコンポンへの旅』で現地での経験を記している )。その後、マルティニーク島とトリニダード・トバゴに短期滞在し、主に、西インドの宗教文化において依然として重要な存在とされるアフリカの神、 シャンゴを調査した。1936年初めにダナムはハイチに到着し、数ヶ月間を過ごした。これ以後、ダナムは生涯に渡って繰り返しハイチで長い時間を費やすことになる。 ハイチにいる間、ダナムはヴォドゥンの儀礼を調査し、とりわけ人々の踊りの動きに関して詳細な調査資料を作成した。何年も後、広範な調査とイニシエーションを経たダナムはヴォドゥン教のマンボ(司祭)となった。また多くの友人を持ったが、中でも高位の政治家であったデュマルセ・エスティメは1949年にハイチ大統領となった。のちにエスティメがその進歩的な政策ゆえ迫害され、 クーデター後にジャマイカへ追放された時、ダナムは生命の危険を賭して彼を助けている。 1936年晩春にダナムはシカゴに戻り、8月、主専攻を社会人類学として哲学の学士号を得た。ダナムはこの大学に通って学位を取得した最初期のアフリカ系アメリカ人女性の一人である。1938年、カリブでの調査で収集した資料に基づき、ダナムは論文「ハイチの踊り:その物質的側面、組織、形態、機能の研究(The Dances of Haiti: A Study of Their Material Aspect, Organization, Form, and Function)」をシカゴ大学人類学部に提出する。これは修士号認定要件の一部であったが、課程を修了しなかった(あるいは学位認定に必要な試験を受けなかった)。人類学の研究と同じくらい、ダンスに力を入れていたダナムは、どちらかを選ばねばならないと悟る。ダナムはロックフェラー財団から学術研究を続けるための助成金を提示されたが、ダンスの方を選び、大学院での研究を断念してブロードウェイとハリウッドに向かった。
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