堂之上遺跡
名称: | 堂之上遺跡 |
ふりがな: | どうのそらいせき |
種別: | 史跡 |
種別2: | |
都道府県: | 岐阜県 |
市区町村: | 高山市久々野町 |
管理団体: | |
指定年月日: | 1980.03.24(昭和55.03.24) |
指定基準: | 史1 |
特別指定年月日: | |
追加指定年月日: | |
解説文: | S55-05-021[[堂之上]どうのそら]遺跡.txt: 本遺跡は北アルプスの西を南流する飛騨川の最上流部、日本海側との分水界付近に位置し、飛騨川本流と八尺川の合流地点に形成された小平野を望む比高約30メートルの段丘上に営まれている。 本遺跡は早くも明治30年に学界に報告されており、以来地元研究者を中心にしばしば調査研究の対象となされてきたものである。本格的な発掘調査は、昭和48年から54年まで久々野町教育委員会によって実施された。その結果、繩文時代前期及び中期の竪穴住居43棟からなる集落跡が確認され、特に中期後半の時期には広場を囲む環状集落が形成されている。中央広場には200か所以上の立石・集石・土坑の痕跡がみとめられ、土坑のほかにはクリ・ハシバミ・クルミなどの堅果類を含むものがあった。中期後半の竪穴住居には2つの類型があり、一つは河原石を用いた石囲炉と埋甕の風習を伴うものである。この石囲炉のなかには、三叉状文様を刻みこんだ巨大な石棒を立てたものがみられる。他の一つは複式炉をもつ住居で、この炉には扁平な板石が使用され、炉の周辺にも板石を敷いて敷石住居をおもわせる例もある。この住居類型は、前者から後者へと変遷したことが遺構の重複関係から明らかであり、文化的なつながりが信州方面から北陸方面へと大きく転換したことを示すものとみなされている。出土した土器に関東・信州方面あるいは東海・近畿方面の土器ないしその影響をうけた土器が多数認められる事実ともあわせて、本遺跡は、日本のほぼ中央に位置し、繩文時代における文化的な交流のあり方をうかがう上で重要な意義をもつものと考えられる。 |
堂之上遺跡
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/17 09:56 UTC 版)
ナビゲーションに移動 検索に移動座標: 北緯36度03分12.8秒 東経137度16分46.4秒 / 北緯36.053556度 東経137.279556度
堂之上遺跡(どうのそらいせき)は、岐阜県高山市久々野町久々野にある縄文時代の集落跡。飛騨川と八尺川の合流点の舌状台地に存在する。国の史跡に指定されている[1]。
概要
明治時代にはすでにその存在を知られていたが、1972年(昭和47年)に久々野中学校郷土クラブにより遺構が発見され、翌年に中学校建設のための緊急調査が行われるまで詳しい調査は行われなかった。その後、1979年(昭和54年)まで継続して発掘が行われ、縄文時代前期中葉から縄文時代中期末葉にかけての遺構が確認された。台地中央部に土壙墓があり、台地辺縁部にコの字型に配置された住居跡がみられる。住居跡の総数は縄文時代前期のものが9、中期のものが34で総計43を数える。建材にはクリが用いられているが、住居形式は時期により変遷が見られる。前期中葉のものは地床炉を中央に持ち、4本柱のある方形の住居で建物周囲に周溝を有する形式で信州方面の文化の影響がみられる。前期後葉に入ると円形の住居が見られ、ほかに小判型、五角形、楕円型の住居も見られるようになる。また地床炉も複式炉となり、北陸や関西方面からの影響がうかがえるものとなっている。
出土品は有舌尖頭器や石棒のほか、早期の押型文土器、北陸型の葉脈状文土器がある。出土品には瀬戸内から関東由来のものがみられるが、傾向として住居の変遷と同じく信州方面(神之木式土器など)の影響のみられるものから北陸、関西方面(里木Ⅱ式など)由来のものへと変化しており、この地域が時期ごとにいかなる方面から影響を受けていたかを把握することができるようになっている。
1980年(昭和55年)3月24日に国の史跡に指定され、1982年(昭和57年)にかけて史跡公園として整備された。出土物は隣接する久々野歴史民俗資料館で展示されている。
脚注
参考文献
- 岐阜県『岐阜県史 考古資料』p.266 2003年
- 久々野町史刊行委員会編『久々野町史』pp.40-42 2010年
外部リンク
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