歴史上「朝敵」と呼称された勢力とは? わかりやすく解説

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歴史上「朝敵」と呼称された勢力

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/27 08:21 UTC 版)

朝敵」の記事における「歴史上「朝敵」と呼称された勢力」の解説

長髄彦日本神話神武東征登場する神武天皇抵抗した大和指導者藤原仲麻呂恵美押勝の乱起こして政権奪取企む官軍敗れて滅亡した。乱に加担した皇族なども処罰された。 淳仁天皇上記藤原仲麻呂後見人としており、仲麻呂の乱には加担していなかったが、孝謙上皇対立していた為、乱後処罰され廃帝となった長らく天皇とは認められ淡路廃帝とされたが、明治時代に「淳仁天皇」と諡号を賜られ、正式に天皇一人とされた。 阿弖流為蝦夷指導者朝廷軍蝦夷征討抵抗し奮戦した坂上田村麻呂敗れて処刑された。もう一人指導者盤具公母禮朝敵として処刑されている。 平将門平安時代関東地方において「新皇」を名乗り朝廷からの独立試みるが朝廷軍討たれた。 藤原純友平安時代瀬戸内海海賊討伐命じられたが自身海賊となって朝廷の船を襲うようになった朝廷から命じられ小野好古の軍に殺されたと伝えられる崇徳上皇藤原頼長保元の乱後白河天皇方と戦うも敗れる。頼長は謀反人とされたが死後正一位太政大臣追贈された。 源義経:兄である源頼朝対立し後白河上皇頼朝追討宣旨迫り一時頼朝追討院宣出される取り消され逆に義経追討院宣出され朝敵となった藤原泰衡奥州合戦において源頼朝討たれる奥州藤原氏への対応には朝廷頼朝との間で隔たりがあり、頼朝元に泰衡追討宣旨届いたのは泰衡の死後である。 北条義時後鳥羽上皇による承久の乱朝敵となるも官軍勝利した為、義時追討院宣取り消される首謀者である後鳥羽上皇配流となった北条高時後醍醐天皇による元弘の乱官軍敗れて一族とともに自害したが、遺児である北条時行後醍醐天皇南朝帰参した為、死後朝敵赦免された。 北条時行元弘の乱滅亡した鎌倉幕府再興掲げて中先代の乱起こす官軍敗れる。しかし、後に後醍醐天皇元に帰参した為、朝敵赦免され、父・高時朝敵恩赦綸旨受けた足利尊氏後醍醐天皇建武の新政から離反して延元の乱反旗を翻す。ただし同時代的には、足利政権北朝擁しており、後醍醐天皇南朝与する勢力と、互い朝敵称しあっている。時代が下ると、太平記大日本史水戸学)、南北朝正閏論皇国史観影響によって尊氏朝敵とする見方一般的となった南朝新田義貞楠木正成など:南北朝戦い北朝勝利終わった為、足利尊氏との戦いで討死した者たちは朝敵となった明治時代になると南北朝正閏論によって「後亀山天皇までは南朝正統」と決まったことから朝敵との扱いはされなくなり逆に勤王家として高位位階贈位された。なお楠木正成は、彼の子孫を称する楠木正虎嘆願により、永禄2年1559年)に正親町天皇から勅免出されており、正式に朝敵から外されている。 大内義興戦国時代初期大名文亀元年1501年)閏6月9日足利義澄細川政元工作により、後柏原天皇から義興討伐綸旨出される。しかし、義興が中国地方諸大名国人率いて上洛し、義澄と細川澄元らを追放すると元々敵愾心のなかった朝廷は義興に従四位下を授けた武田勝頼戦国時代後期大名天正10年1582年2月織田信長徳川家康とともに武田氏を滅ぼすが、その際信長武田攻めに際して朝廷動かし武田家当主の勝頼を「東夷朝敵)」とした。 島津義久九州平定豊臣秀吉は、天正13年1585年10月島津氏大友氏に対して朝廷権威以って停戦命令した惣無事令による九州停戦令)。しかし、島津側は「神意」としてこれを拒否したので征伐され、秀吉に降伏した。 後北条氏畿内豊臣政権抵抗して討伐を受ける。天正18年1590年)、小田原征伐前に後陽成天皇豊臣秀吉節刀授けた秀吉朝敵討伐のため関東下向した。後北条氏討伐後、奥州仕置行い天下統一完成させた。 長州藩幕末禁門の変で、江戸幕府との戦闘中京都御所発砲したことで長州討伐の命が出される二度にわたる長州征伐起きたが、幕府側の敗北終わった為、不利を悟った徳川慶喜により長州寛典論が出される慶応3年1867年12月8日朝議で、藩主毛利敬親官位復旧決定して朝敵赦免された。 旧江戸幕府勢力朝廷の命(会津藩桑名藩帰国させた上で徳川慶喜軽装上洛)に違反した軍勢(会含めた大軍)を派遣し薩摩藩長州藩相手鳥羽・伏見の戦い戊辰戦争)を起こす敗れた為、旧幕府方は賊軍となる。徳川慶喜追討令が出され慶喜側で戦った諸藩朝敵となり、五つ等級区分された。 第一等。徳川慶喜元江幕府将軍第二等。松平容保会津藩)及び松平定敬桑名藩第三等。松平定昭伊予松山藩)及び板倉勝静老中備中松山藩)及び酒井忠邦姫路藩第四等。本庄宗武宮津藩第五等。戸田氏共大垣藩)及び松平頼聰高松藩) 他にも唐津藩延岡藩などが朝敵となった。後に全員赦免されている。

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