歴史・一等格院・幕府領(元禄4年『千手寺縁起』より)
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「千手寺 (岡山市)」の記事における「歴史・一等格院・幕府領(元禄4年『千手寺縁起』より)」の解説
千手寺(水脈・龍神信仰から千龍寺ともいう)は、江戸時代、元禄4年(1691年)備前岡山藩初代藩主池田忠継(徳川家康の外孫にあたる)・荒尾家ゆかりの瑞松山 景福寺 透海が、当時の千手寺住職 専栄の依頼により記した『千手寺縁起』によると、天平勝宝4年(752年)に奈良・南都六宗の一つ法相宗の高僧報恩大師(真言古流小嶋流を伝える、奈良報恩山千壽院 子嶋寺を開基)により創建され、当地弥陀八幡宮(岡山藩池田家の崇敬が殊に篤く、毎年6月24日の祭典には領主の代参があった)の社職を務めたと伝えられる(報恩大師創建の寺院は本尊が千手観音であることが特徴となり、『千手寺縁起』にも奈良子嶋寺が言及されている)。また、それを裏付けるように現コンベックス内の天神坂遺跡発掘調査により寺院跡が確認され、平安中期・後期の瓦も発見されている(岡山県文化財保護協会『岡山県埋蔵文化財発掘調査報告53』)。 千手寺のある大内田は、小京都で知られる周防国府(現在の山口県)の大内氏の所領であったと伝えられる。戦国時代には福田村山田の豪族 坪井城主 坪井左京進が厚く千手寺に帰依した。慶長5年(1600年)から戸川庭瀬藩領、さらに遠江(静岡)浜松藩領となり、後に徳川江戸幕府の直轄領(最初は笠岡代官所、のちに倉敷代官所による倉敷支配所)に編入されている。 元禄15年(1702年)、備前と備中の国境が備前の久米村、今保村と備中の延友村の間で水利権問題で紛糾した際も、幕府領である大内田の庄屋孫四郎が境目川の仲裁をなしている。明暦年間に池田光政により、法界院もしくは吉備の中山より千手観音堂、ならびに、山田村から高梁川からの十二ヶ郷用水の水脈信仰として祀られ、妹尾兼康に信仰された天満宮が移転されたことを踏まえると、幕府領における寺院としての千手寺の背景がうかがえる(天領寺院としての千手寺)。 『千手寺縁起』によると、嘉暦元年(1326年)、四国・讃岐屏風浦五岳山誕生院善通寺派総本山善通寺中興の祖宥範法印(金毘羅金光院)により堂塔を建立、天正13年(1585年)、宗覚僧都により再興され、京都・大内山 御室派総本山仁和寺末となり、その後、京都御室本山直末の一等格院(本山御直末寺・中本寺)として、大内田の千手観音菩薩を祀る千蔵坊、虚空蔵菩薩を祀る日差山大蔵坊、如意輪観音を祀る昇龍山大師堂、阿弥陀如来を祀る八幡山無量寺 阿弥陀八幡宮、歓喜天(聖天)を祀る向庵観音堂、妹尾崎の牛頭天王を祀る茶山三昧寺、蓮華寺、天満宮、祇園神社、坪井の妙蓮寺、大年の玄光院、山田の伍社神社、高尾山の厳島神社、などの多くの坊社を近隣に備え「上寺(かみでら)」とも称されてきた。 また、妹尾の啓運山盛隆寺が 慶長10年(1605年)、庭瀬藩主 戸川達安により真言宗から日蓮宗へ改宗、それにともない住民も日蓮宗へ改宗となったが(改宗した者はその年の年貢を納めなくなくてもよく「未進法華」という)、庭瀬・撫川・妹尾・妹尾崎の真言宗の法灯と信仰を護持する檀信徒は千手寺へ継承されることとなった。 江戸時代には幕府直轄地の本寺ゆえか、備前藩家老池田隼人の帰依を受け池田家屋敷が移築され、千手寺には現在の客殿と本堂が一体型の建物が建ち、寺侍が仕え詰所と茶室が設けられていたと伝わる(山門は武家屋敷の門を移築したもので、一伝には岡山藩家老職の伊木家の門の一つであったという。2016年改築)。千手寺寺領としては、現在の庭瀬駅から旧2号線の通りに面する、中国銀行の建物あたりが、戦後の農地解放でのGHQによる払い下げまでの寺領という。また倉敷駅近くの大島にもかつての寺領があり、足守川沿いには「南円ごう」と呼ばれる寺領も有していたという。 第二次大戦後、高野山真言宗への転派を経て現在に至る。
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